近代沖縄/沖縄の民権運動 3/4

■人頭税廃止運動

 旧慣温存(きゅうかんおんぞん)策によって残された人頭税(にんとうぜい)は、依然として宮古の人々を貧窮させていました。しかし、沖縄全県的に広がっていた民衆運動は、ここにも飛び火し、人頭税廃止運動へと展開していきます。
 人頭税廃止運動は、農民の重苦にあえぐ姿をみかねた糖業技師・城間正安(グスクマせいあん)と実業家・中村十作(なかむらじっさく)の二人の努力なしには成立しませんでした。
 二人を運動の筆頭とした宮古の農民たちは、着任したばかりの奈良原繁(ならはらしげる)知事に対し、地方役人の数を減らすことや人頭税廃止などを請願しました。しかし、士族層の強力な抵抗でこの請願は保留になり、士族と農民の対立が激化しました。
 宮古の農民たちは、城間と中村の指導のもとでなおも請願を繰り返しましたが、受け入れられるようすがないため、上京して帝国議会に直訴する計画を立てました。中村らは、上京の途上に士族や警察の妨害に合いながらも、農民代表二人をひきいて内務大臣に建議書を手渡し、宮古の内情を直訴することに成功しました。
 こうした宮古農民の努力が実を結び、1903(明治36)年、ようやく人頭税は廃止されたのです。
 しかし、人頭税廃止要求の建議書が第8回帝国議会を通過した1895(明治28)年当時は、日清戦争のただ中であり、沖縄の近代化を急ぎ、国防体制に組み入れようとした中央政府の思惑がその背景にあったことも見逃せません。それにしても、宮古の農民運動が明治政府を動かし、旧慣温存の改革を導きだしたのであり、沖縄の近代史に大きな影響をあたえたことは特筆すべきことでしょう。



戻る 進む