近代沖縄/沖縄の民権運動 2/4

■立ち上がる農民

 明治政府は、廃藩置県が実施された当初、従来の苛酷な税制を改革し大幅減税することを予告していましたが、実際に人々にあたえられたのは改革による新制ではなく、旧慣温存(きゅうかんおんぞん)という王府時代と変わらない支配体制でした。
 ところが、首里王府という封建的権威の崩壊は、人々の意識を確実に変化させていました。一般民衆=農民は、みずからの力で生活権の保障を主張しはじめたのです。
 そして、旧慣温存を盾に不正をはたらく支配者層に向けた怒りは、各地で爆発しました。
 1881(明治14)年に粟国島(あぐにじま)で、役人による不正徴収を農民が一丸となって糾弾したのを手はじめに、1883(明治16)年の名護間切(なごマギリ)屋部村における富豪・久護家への財産の開放要求や、村役人に対する不正抗議行動などが各地で起こりました。このような民衆運動を取り締まるべく、当時の岩村通俊(いわむらみちとし)県令(県知事)は集団抗議行動の禁止令を発令しましたが、農民の怒りはおさまることがありませんでした。
 このような農民の集団抗議行動は、直接的には地方役人の不正追及に向けられていましたが、それはまぎれもなく旧慣温存という制度そのものに対する不満や抵抗であり、改革要求の意思表示にほかなりませんでした。
 こうした抗議行動は、1888(明治21)年の予算審議に農民代表を参加させるにいたるほど、県当局に影響力をあたえました。そして、宮古島の人頭税廃止運動でピークに達しました。



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