島津(しまづ)侵入後の17世紀半ばごろ、中国では明朝から清朝へと政権が交代しますが、琉球との交易はその後も継続しておこなわれました。
中国へ向かう進貢船(しんこうせん)にのりこんだ進貢使のうち、北京へおもむくのは十数人で、そのほかは福州の琉球館にとどまって中国商人を相手に商取引をおこないました。
いっぽう、中国からやってくる船・御冠船(おかんせん)には、冊封使(さくほうし)のほかに多数の貿易品をたずさえた数百人にもおよぶ商人が同乗しており、王府はそれらの品物を適当な金額で買い取らなければなりませんでした。
当時の王府の財政は、年貢のほかに黒糖やウコンなどの専売商品でまかなわれていましたが、財政状況は厳しく、中国との貿易資金の大半を島津氏や薩摩藩の御用商人から借りなくてはなりませんでした。そのため、鹿児島の琉球館に出入りしていた薩摩の御用商人は、琉球の黒糖などを優先的に安値で買うことができました。彼らは、京都や大坂で中国へ持ちこむ貿易品を調達するとともに、京都・大坂の大商人から銀を借りて、琉球の中国貿易の資金を調達しました。
このように当時の琉球王府は、島津氏や薩摩商人に依存することによって、中国との進貢貿易を成立させていたのです。その結果、進貢貿易によってもたらされた中国商品は、本来返済しなければならない銀のかわりに島津氏や薩摩商人の手へ渡すことになりました。つまり、島津氏および薩摩藩は、琉球の進貢貿易をうまく利用して利益を得ることができたのです。
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首里那覇港図八曲屏風
(右部分)
首里那覇港図八曲屏風
(左部分)
琉客談記
奉使琉球図
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