古琉球/統一王朝の成立 5/12

■為朝伝説

 琉球王府の正史『中山世鑑』に記される舜天(しゅんてん)王は、源為朝(みなもとのためとも)の子であるという伝説があります。
 保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑になった源為朝は、島からの脱出をこころみますが、潮流に流され、運を天にまかせてたどり着いたのが琉球北部の今帰仁(ナキジン)でした。それでこの港を運天港(うんてんこう)と名づけました。そこから南部に移り住み、大里按司(おおざとアジ)の妹と結ばれて男児をもうけますが、為朝は妻子を残して故郷へ戻ってしまいました。妻子が為朝の帰りを待ちわびたところが牧港(マチナト・まきみなと)と名づけられ、その尊敦と名乗る子が後の舜天王だという話です。
 これはたんなる伝説にすぎませんが、その背景には、17世紀初頭に島津氏(しまづし)によって侵攻された琉球が、島津氏に従属する理由づけを必要としているということがありました。つまり、琉球を徳川政権下の幕藩体制に造作なく組み込ませるために、琉球の国王が徳川や島津と同系統である源氏の血を引いているとする「日琉同祖論」に利用したのです。
 このような意図で、為朝伝説は琉球最初の正史に記されることになったのです。


牧港テラブのガマ


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