沖縄本島の各地で按司(アジ)が覇権を争っていた14世紀はじめごろ、先島(さきしま・宮古および八重山諸島)でも農耕社会がはじまり、各地に村落が形成されました。村をおさめる首長は天太(てんた)、按司(アズ)、頭(カーラ)などとよばれ、のちに島の各地で勢力争いをくりひろげる、いわゆる群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代を形成します。
宮古では、14世紀後半になると武力によって村落を支配しようとする按司が各地にあらわれ、島は争乱状態におちいりました。その中でより勢力を誇った目黒盛豊見親(メグロムイトゥイミヤー)が、宮古を統一しました。しかし、もう一つの有力按司・与那覇勢頭豊見親(よなはシドゥトゥイミヤー)が察度(さっと)王に朝貢してより力を拡大したため、宮古は二つの勢力によって支配されることになります。
15世紀半ばになると、目黒盛豊見親の子孫である仲宗根豊見親(なかそねトゥイミヤー)が頭角をあらわし、1474年には尚円王により宮古の首長に任じられて、ここに宮古諸島の政治的統一が実現しました。
いっぽう、宮古が統一されたころの八重山はまだ統一されず、各島々では、互いに交易をおこないながらも激しい覇権争いを展開していました。
また、与那国(よなぐに)や西表(いりおもて)など宮古勢力の息のかかる地域もありましたが、基本的には宮古勢力と八重山勢力という対立関係がみられ、さらにそれらをすべて支配下におさめようとしていた琉球王府の存在もあり、複雑にからみ合った軍事的対立がこのころから表面化しはじめました。
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