近代沖縄/琉球処分 8/8

■宮古・八重山分島問題

 琉球問題は、廃藩置県による沖縄県設置で完全に解決されたわけではありませんでした。清国は依然これを認めず、また琉球でも清国に救援を求め続ける人たちがいました。
 清国から琉球問題の調停依頼を受けた米国前大統領のグラントは、伊藤博文ら政府高官と協議し、日清交渉をとりつけました。その交渉の場で日本側が出した案が、日本の中国国内での欧米なみ通商権を認めることと引きかえに、宮古・八重山を中国へ引きわたす、というものでした。これがいわゆる「分島・増約案」です。
 交渉は難航しましたが、ロシアとの国境紛争も抱えて早期解決を望んでいた清国側は、やむを得ず日本案を受け入れることに同意しました。
 1881(明治14)年2月、両国の代表が石垣島でおち合い、正式に宮古・八重山の土地・人民を清国に引きわたすことになりました。
 しかし、いざ調印の段階になると、清国側は国内の混乱や日本の東アジア進出の危機感をおぼえて調印をためらいました。また、琉球の清国亡命者の再三の請願書も影響して、結局は正式調印されることなくこの条約は棚上げされました。
 1872(明治5)年の琉球藩設置にはじまり、1879(明治12)年の廃藩置県による沖縄県設置、そしてこの分島・増約問題にいたる政治過程が「琉球処分」とよばれるものです。
 その後、日本の朝鮮進出によって日清間の対立は激化し、ついに日清戦争(1894〜1895年)が勃発しました。この戦争で日本が勝利をおさめ、台湾が日本の植民地となったことにより、琉球問題はあいまいにされたまま日本に属することになりました。



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