近代沖縄/「ソテツ地獄」下の沖縄 4/4

■方言論争と皇民化教育

 日清戦争後、近代化の波の中で、沖縄でも生活風俗を大和風に改めようとする運動がありました。昭和10年代になるとこの動きは熱をおびてきて、沖縄的な名字を大和(ヤマト)風に改めたり、読み替えたりするようになりました。
 県の懸案だった標準語の励行という気運も、国家主義の高まりにともない次第に強くなっていきました。1940(昭和15)年に県当局が推進した標準語励行運動は、強制や禁止、懲罰などで厳しくすすめられたため、「方言撲滅(ぼくめつ)運動」と受け取られました。それは、来沖した日本民芸協会の柳宗悦(やなぎむねよし)らが、標準語励行運動は行き過ぎであると批判したことから、県内外に賛否両論の「方言論争」を巻きおこしました。
 この論争ははっきりした形での結論は出ませんでしたが、日本が挙国一致(きょこくいっち)体制で戦争を押し進めていた時期でもあったため、標準語励行運動はむしろ強化されていきました。沖縄戦がはじまると、「方言を使用する者はスパイとみなす」という日本軍は、県民の方言使用について厳しい圧力を加え、そのことによる悲惨な事件も沖縄戦の最中におきました。
 方言論争にみられた柳宗悦らの指摘は、むしろ戦後になって影響をあたえはじめ、日本本土での沖縄蔑視問題や、沖縄側の安易な本土追随の姿勢を反省させ、沖縄の人々が沖縄文化の豊かさを再認識させるきっかけになりました。



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