近世琉球/琉球王国の再建 10/10

■明和の大津波

 「明和の大津波」とは、1771(乾隆36)年4月、石垣島東南海域でおきた海底火山の爆発による地震で、宮古・八重山に甚大な被害をもたらした大津波のことです。津波は石垣島の東南の浜からかけ登り、先端部は標高85.4mの地点にまで達したといわれます。
 津波によるおもな被害は住居家屋流失2,176戸、流出米2,223石、死亡者は9,313人で、なんと八重山の全人口の約3分の1におよびました。
 津波のあと、天災と疫病(えきびょう)が発生したましたが、疫病の流行は人災の要素が強いといわれます。沖縄本島南部で津波と同年に発生した疫病には義援の穀物が支給されたものの、八重山の津波罹災者へは支給されなかったため、餓死(がし)寸前の食糧事情が被害をよりいっそう拡大させたといえるのです。しかも、王府は津波被害によって未納となった人頭税(にんとうぜい)を死んだ人々の分まで徴収したため、生き残った者に過酷な労働を強いることになりました。
 天災・疫病・税の徴収と、壊滅的な打撃を受けた八重山の人口は減り続け、王国末期には津波前の人口の約3分の1まで減ってしまったといいます。
 また、この津波は宮古でも大きな被害をもたらしました。30数mの地点まで押し寄せた津波によって、2,548人が亡くなったと宮古史伝に記されています。



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