仲里
70年代からは大城さんと比嘉さんにも話に加わっていただきたいですが、その前に、山田さん自身の写真に対する姿勢というか、写真観について聞いておきたいのです。山田さんは、今年(2003年)の1月7日から12日まで、これまでの山田さんの写真歴の集大成ともいえる個展(山田實写真50年/時の謡 人の譜 街の紋)をやりましたよね、あの個展は山田さんの原点ともいえるリアリズムから抽象度の高いカラーまで、ある意味では山田さんの写真の履歴が一望できるような写真展だったと思っていますが。
山田
僕にとって、濱谷浩先生の影響がすごく大きかった。僕らの時代は、写真の勉強をするという機会がなく、本土から入ってくるカメラ雑誌が唯一の勉強の資料だったんです。カメラ雑誌に応募する作品の審査員に土門拳、木村伊兵衛さんたちがいて、講評を書くわけですね。入選作品の。その講評を読むのが何よりの楽しみで、勉強になった。
僕は、その土門さんのリアリズムというのにひかれた。僕が最初に撮りだしたのは、道ばたで遊ぶ子ども、それから浮浪者、泥んこの平和通りで商いをするご婦人やおばさんたちでした。だからほかの写真仲間とは少し違う作風が当時からあった。それに濱谷浩先生の忠告とでもいうか、一緒に撮影に歩いているうち、何を撮らなくっちゃいけないかという、目標とでもいうか、示唆を受けましたね。沖縄の変わりゆく、ただ風景だけじゃなく、庶民の生活を撮っておかないといけないと。そのころから、いなか回りの取材がはじまったんですね。
仲里
あの写真展の第2パートとして「生活者の原像」がありました。騒然とした社会とは別なところで、静かな生活を送る人々を撮りたい、撮る義務感みたいなものを感じたというご自身の言葉をイントロにおいていましたが、なぜそうさせたのかといえば、生死の境をくぐり抜けたシベリア体験を抜きにしては語れないような気がします。山田リアリズムの原点はシベリア体験にある、と勝手な解釈をしていますが…。では、お二人に話に加わっていただきましょう。歳は同じくらいですか。
大城
僕は(19)68年入学で。
比嘉
僕は(19)70年に入学して。
仲里
琉大に入ってから写真を?
大城
写真クラブに入ったのは僕のほうが遅いよね。
比嘉
僕は最初から入っていました。
仲里
まず写真との関わりについて話してもらいたいと思います。山田さんが言われたように、戦後の沖縄の写真の権威づけとでもいうか、メインストリームの一つが沖展だとすると、当時、琉大や沖大で写真をやっていた若手は、そういった写真界のメインストリームに対し、どういうスタンスをとり、どういう見方をしていたのか。
大城
僕は、沖展に1回、出品を試みたけど、搬入はしませんでした。理由は、作品が大きすぎて、規格外だということでしたが、沖展の作風に合うから応募したのではなく、僕の作品を出すことによって、沖展の作風に風穴をあけたいという、ちょっとしたもくろみがあったんですけど、受け付けられませんでした。
比嘉
僕は70年入学で、入った当時、すぐ封鎖されて、ぜんぜん学校に行けるような状況ではなかったですね、行きたかったですけど…。それで、クラブ通いで写真をやっていたんですね。学生運動が頻繁なもんだから、もうそればかり撮っていてた。先輩から誉められたりもしたもんだから沖展に1点出して…。
山田
それが賞をとった。
大城
奨励賞をとった。デビュー作で。
比嘉
だけども、賞とか関係なく出したんですけど、ただ、その中の批評というのが、気にくわなかった。光がどうのこうのとか。僕なんか、闘争のメンバーたちと、ずっと朝から晩まで一緒に暮らして、そういう中で撮った写真なもんだから。
大城
比嘉豊光は、相当ことばが足りないけれども、5日間、一緒にピケを張って、寝泊まりを共にして写真を撮って。そういう状況から生まれた写真なんだけど、ただ一言「光がきれいね」と言われた。(笑)
仲里
どんな写真だったわけですか。
比嘉
全軍労の牧青(牧港青年部)を撮った写真なんです。
仲里
逆光から。
比嘉
組み写真なんですよ。何枚かの。だからもちろん逆光もあるし、ちゃんとした写真なんですよ。
仲里
それが「光がきれいね」と言われたわけだ。(笑)
大城
復帰運動がまさしく、盛り上がっているころで、写真を撮るのも、講義を受けるのも、デモにいくのも生活の一つというか。そういう関わり方をしていたので、オジー、オバーとか撮るひまもなく、モデル撮影会にいくひまもないし。
仲里
神原中学校で沖展が開催されたときに、三大学で「反沖展」の野外展をやっていますよね。どういう状況でしたか。
大城
彼(比嘉)が前の年に入選したんだけど、僕らの意図が伝わっていないということで、大学祭でやったパネルをそのまま持ち込み、沖展の会期に合わせて、沖展会場の向かいの与儀公園でやりました。サロン調の写真が中心だった沖展に対して「写真界はそれどころではないだろう」と。復帰を前にした73年3月ですから。
仲里
そのときは、山田さんは審査員だった。
山田
話し合う機会を持ちたい、と言ってあったが、拒否されたんですよ。ほかの審査員も「相手にするな」ということになって。新聞社もそのほうがいいと言うんです。入り口でビラ巻かれたんですよね。「沖展写真部反対」とか。だから、沖展の歴史のなかで、写真部だけなんですよ、ああいう事件があったのは。ほかの美術部門ではないですよ。だから写真がいかに社会性を持った分野かということが、そのとき、わかりましたね。はっきり。
仲里
見にいかれましたか。
山田
行きましたよ。ほとんど、デモの写真でね。
大城
そうです。デモと米軍基地でしたね。
山田
強烈な訴えがある写真でね。こちらも考えさせられましたよ。それから何年間かは、基地の写真が、どんどん入賞するようになった。あの影響で。確かに痛いところを突かれたと思ったんでしょうね、審査員は。
デモ隊と米兵。民政府前で。
1971年5月。撮影:山城博明
仲里
二人が写真活動をはじめた時期というのは、復帰前後ですね。沖縄の激動の時代というか、熱い政治の季節だったわけですが、そのときにヤマトからも、いわゆる報道カメラマンといわれる人たちが大挙してやってくるわけですよね。69年には東松照明さんもきている。どんな感じで見ていましたか。
大城
直接、付き合っているのは何名かしかいないけれども、作品はカメラ雑誌と写真集で、相当に見せつけられていましたね。でも、もっと撮れるところがあるのにとか、報道でいうと、踏み込んでいないのでは、と時々、思ったりはしましたけど。
比嘉
極端に言えば、内地のカメラマンはつまらん、報道だけを追っかけにくる人はつまらんと思っていました。東松さんは、たまたま、平良孝七さんが連れてきて、有名な人ということでしたが、僕らは有名なカメラマンだからといって受け入れたわけではなかった。沖縄の現状というのは我々が撮るべきだということで、伊志嶺隆さんも一緒になって、沖大の写真クラブと琉大の写真クラブで合同の写真展をやり、それが
「ざこ」
(※11)
という集団を生んでいった。そういう中にあって、内地のカメラマンをある意味で、冷ややかな目で見ていたんですよね。
仲里
「ざこ」の活動は何年くらい続きましたか。
比嘉
1年か、2年。復帰終わったら自然消滅していきました。復帰の、その動きだけの感じだね。
(※11)「ざこ」;写真集団「ざこ」、1972(昭和47)年結成。