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 学習院(がくしゅういん)で学んだ昇は、2年後、帝国農科大学(ていこくのうかだいがく)に進み、近代農業を学んだ。同じころ、日本では、「人民による人民のための政治(せいじ)」を求める自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)が起こっていた。
 「長い間、しいたげられてきた農民を救うために戦うのだ」とうったえる自由民権運動に感動した昇は、「大学に残り農学士として研究をつづけるより、沖縄に帰ってまずしい農民たちを救おう」と決めた。

image 沖縄ではじめての学士になった昇は、沖縄にもどり県庁で働くことになった。そのころ県庁で働く人はほとんどが他府県の人だった。沖縄出身の昇は、かれらもおどろくほどに活やくしたことから、他府県人に見下げられていた沖縄の人々を「農民の子でもえらくなれる」と勇気づけた。

 しかし、奈良原繁(ならはらしげる)が県知事になると、杣山(そまやま)のはらい下げ問題で、昇は知事と対立することになった。
 杣山とは材木を切り出すための山で、農民たちが管理していた。そのため、この山林をまずしい士族のためにはらい下げる計画が持ち上がると、農民たちは自分たちの生活がおびやかされると反対した。
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