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 政治(せいじ)へのえいきょうりょくが強かった神女(しんじょ)たちは、王の姉妹を最高の神とする、聞得大君(きこえおおぎみ)のし配のもとにおかれた。
image このように、国王を一番上においた社会の仕組みが、尚真王の時代に整えられた。

 尚真王は、1500年、八重山で起こった「オヤケアカハチの乱」をしずめ、王府が支配するはん囲を、北は奄美大島(あまみおおしま)から南は八重山諸島(やえやましょとう)にまで広げた。
 地方の土地も整びされ、現在の市町村にあたる区いきを間切(まぎり)、字(あざ)をシマとよんだ。

 尚真王は、外国との行き来もさかんにおこなった。
 とくに文化がさかえていた中国には、何度もみつぎ物を持った使者をおくり、中国のきちょうな品といっしょにすぐれた文化や学問もとり入れた。中国のほかにも、東南アジアのシャム(タイ)やマラッカ(マレーシア)、スマトラ(インドネシア)などにも船をおくった琉球は、これらの国で手に入れた品を朝鮮(ちょうせん)や日本に売って利えきをあげ、経済的にもゆたかになった。
 また、こうした外国と行き来することで、焼物やおり物、楽器など、いろんな国の品物や文化が伝えられ、琉球文化の黄金時代をきずいた。
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