ポストモダンから多様化主義へ


第4期 1980-90年代

1980年代 拡散へ

 

 
 1980年代初頭には沖縄の近代化は終了する。風景が確実に変容し、沖縄は悲劇の島から南の楽園へ脱皮する。日本のリゾート地として、「OKINAWA」に生まれ変わり始める。各地の行事、神事も「まつり」となり「南島」らしい装いをますます整えていく。そのエスニシティーも観光=商品の対象となったのである。80年代は日本の高度消費経済と文化の解け合った、記号の消費とでもいうポストモダニズムが沖縄にもひたひたと押し寄せることになる。日本本土と共有する部分が増えていく一方、固有性へのこだわりは沖縄のアイデンティティーを強烈に希求することにもなる。
 さてこの時期の美術界の大きな特徴も社会と同様、沖縄の戦後美術の近代が達成された季節といえよう。70年代を通じて、静かに推移していた状況が都市化と共に多様な様相を見せ、民間のギャラリーや公立ギャラリーがオープンし、展覧会が各地で行なわれるようになった。
 団体展はますます盛んになり、支部会員も確実に増えてくる。沖縄の作家全体の色彩が明るく、さえてくる。ある意味で、これまで「遅れている」と思っていた沖縄の美術家も技術的に本土と肩を並べることができると、今度は「差異」が問題となって来る。
 永津禎三(ながつていぞう)など琉球大学への本土からの若い教官の赴任は、沖縄の美術界に徐々に影響を与え、自主ギャラリーの運営を通じて若手作家の活動の道を開いた。
 能勢孝二郎(のせこうじろう)、能勢裕子(のせゆうこ)は、公共建築がますます盛んに行われ、ポストモダン風な建築も随所に見られるようになる時期と軌を一にし、場や関係といった、彫刻の概念を広げて見せる作品を制作、シンポジウムの企画を通して、現代彫刻の地平紹介した。
 青山映二(あおやまえいじ)や山内盛博(やまうちもりひろ)など、地域の風土とまったくかかわりなくモダニズム絵画を標榜する、すでに現代美術の言語を内面化した世代が出てくる。彼等にとって沖縄にこだわることや固有な風土性を作品から発生させる事を考えること自体がすでにナンセンスな事であった。
 豊平ヨシオ(とよひらよしお)や、山城見信(やましろけんしん)など、これまで70年代を通じて沈黙を守っていた中堅作家が、風土や、沖縄の現実をくみ上げ、方法を獲得し、個的な営為を開いて見せた。
 86年牛窓国際美術展、87年「今日の作家展」の豊平ヨシオ、能勢孝二郎など、沖縄の作家が本土の企画展でとりあげられるようになった。

 
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