同化へ


第3期 1970年代

 

 

 沖縄にとって、70年代は本土復帰に象徴されるように政治や文化が日本へ帰属する過程であり、復帰と海洋博覧会の狂想曲の後、自分自身の内部の闇を探る季節でもあった。前衛運動が終息した後、新しい美術運動グループや思潮も出ず、美術家は本土の美術団体の系列に入るか、60年代の反動として内面に向かう。
 70年代初頭の世界的な景気後退は沖縄の経済にも影響を与えたが、国による「格差是正」のための公共投資の加熱や、海洋博覧会開催による国家的行事が一気に沖縄を近代化=本土化する契機としたと言えるだろう。
 70年代はそれまでの「グループ耕」や「現代美術研究会」「創斗会」の前衛やモダニズムに対する反動期であり、美術家は本土の団体の系列に入るか、固有なものを懸命に捜す、内面への傾斜の時期であった。
 当時、第3の琉球処分などとも言われた復帰は、美術家の情熱にも水をかけ、白けたものにしたともいえる。とはいえ、自由な渡航、情報の増大・加速はこれまで沖縄だけで自足していた美術界に広がりが出、直に作品を見、情報を得ることが以前より容易になった。
 それまで沖縄の美術家の目標は中央の団体展で賞を受賞し、会員になることであった。前述した第1世代と第2世代の確執の遠因もそこにある。特に第2世代の場合、施政権が分断されたために本土への出品等が難しくなり、しばらく不自由を余儀なくされた。そのことの抑えられたエネルギーが運動に高まったとも言える が、彼等もやはり、本土の公募展で会員になるのが目標であった。70年代は上野の美術学校出身からほとんどが琉球大学出身の戦後世代へと移る時期でもある。復帰は本土団体展への応募を活発にさせる要因となった。前衛的な活動をしていた中心的作家も団体展に入るか支部結成にいそしむようになる。
 問題は作家のそれぞれの差異も、団体展のなかでの差異であり、たぶんそれも同化の過程の一つといえるが、固有性の模索もその中でなされた。






 
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