モダニズムから前衛へ


1960年代 前衛のゆくえ

 

 
 創斗会(そうとかい)のメンバーの中から、60年代始め、前衛「グループ耕(こう)」が出てくる。(初期のメンバーは大浜用光(おおはまようこう)、城間喜宏(しろまきこう)、大嶺實清(おおみねじっせい)である。)「グループ耕」は「沖展」を中心とする既成画壇と「創斗会」の造形主義を、すでに情緒に流れていると判断した。もっと文学性を廃し、日常のものを使いながら、「大衆」とともにある美術を考えた。それはまた、創斗会のリーダー達に、ある種のアカデミックな権威主義を感じていたからでもある。「耕」はアンフォルメルに影響を受けて制作してきたメンバーが集まって結成されたグループで、本土における具体美術協会の活動やネオ・ダダ的な動きに刺激を受けつつ活動したのである。
 理論的支柱である大浜はこう述べている。「私は絵画のイメージを物自体のもつ言葉によって表わしたい。ものさながらの姿においてみるということ。」(存在自体の絵画化・沖縄タイムス1965.12.16)
 しかし、「グループ耕」の運動は思想としてはほとんど理解されなかったといってよい。しかも彼等の活動はかなり難解なものと捉えられた。それは自らの大衆の論理と矛盾するものであり、そ語をきたした。とはいえ、グループ「耕」の展覧会はかなりの観客が観覧し、当時のジャーナリズムを賑わせ、彼等の活動に関して様々な批判、批評、が行われ、新聞誌上で活発な論争も展開された。(批判の論調は概ね「彼等の仕事は単なる外部からのモードではないか、あるいは造形性にまだ依拠していて、タブローのなかに美をさぐるようでは論理的根拠が弱いのではないか。」あるいは「言葉の論理と実作の乖離--折衷主義ではないか」といようなものであった。)
 「耕」は事実完全に壁面から離れることなく安谷屋の死と同年の1967(昭和42)年に解散する。



   「耕」の反造形主義に対し、反芸術的な試みをするグループが現われる。「耕」を脱退したメンバーの一部が、1968(昭和43)年から72(昭和47)年までに公園や那覇市内の川などを使用してオブジェによる野外展を数回繰り広げた。最初の公園での展示は古タイヤを積み上げ、数十メートルに及ぶベニヤのフェンスにコインを張り付けたもの、プレスした大量の空缶の塊等を広場いっぱいに置いたものであった。それは当時の世界や日本の動を意識した活動であり、沖縄の政治状況に対する怒りや苛立ちを表わしてもいた。
 1960年代後半から、70年代初頭にかけて沖縄は激動期を迎える時期で1965(昭和40)年北爆が開始され嘉手納飛行場からB52が昼夜を分かたず飛び立ち、68年B52墜落事故、69年2.4ゼネスト中止、佐藤・ニクソン共同声明による72年復帰の決定、70年コザ暴動、など大変な激動期であり、アトリエでベレー帽など被って絵を描いていることに犯罪意識さえ感じさせる政治の季節であった。復帰前の社会情勢に身を置いたとき、現実に敏感な若いアーティストであれば「何か新しい形式で直接的に表現したい」と思うのは健康な反応である。にもかかわらず、地元のマスコミの反応は冷ややかであったが、当時の英字新聞がAngry Young Artistsとして2面見開きの大きな写真入で取材しているのは皮肉といえる。しかし、彼等はこれという理論を持たずに、その後もまったくグループ活動もせず、ほとんどのメンバーがそれ以後制作をやめるか長い期間制作を断った。
 けっきょく、60年代の前衛は自らの活動を理解し、支える基盤をもたず、短期間で終息した。

 
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