モダニズムから前衛へ


第2期 1950-60年代

 

 
 1952(昭和27)年の対日平和条約により、沖縄の施政権は完全に日本と切り離され、徹底した軍事優先政策を敷き、軍用地の強制接収を強行した。そのため、島ぐるみ闘争がおこった。
 美術においては、そのような現実を背景にモダニズムを受容するグループが出てくる。とはいえ、それもある意味で米軍のカサの中での活動といえた。
 60年代になると沖縄の社会は民衆の権利獲得運動が力をつけ、ついに復帰運動になだれ込んでいく。美術においても前衛グループが誕生し、先鋭になる。


 

1950年代 復興から戦後美術へ

 

 
 「沖展」第1回の審査員は大嶺政寛(おおみねせいかん)、名渡山愛順(などやまあいじゅん)、大城皓也(おおしろこうや)、山元恵一(やまもとけいいち)、沖縄タイムス社社長の豊平良顕(とよひらりょうけん)である。第2回展には、山田真山(やまだしんざん)が加わっている。
 上記の審査員は明治末年か、大正の初期に生まれている美術家たちで、いわゆる戦後美術の第一世代たちである。その中心の作家は名渡山愛順と大嶺政寛である。戦前から中央画壇とつながりがあり、光風会や春陽会の会員となっていた彼等は沖縄の風土にこだわり、沖縄のモチーフを全面に押し出して描写した。名渡山は琉装の女性を沖縄の工芸品などを背景に描き、大嶺は戦後急速に消え去りつつある赤がわら屋根の連なりのある風景を求めて離島まで出かけて描いた。どちらも現実とかけ離れた古き良き沖縄であるが、彼等は最後までそのロマンにこだわったのである。

 第1世代の審査内容に反発することがきっかけになって結成されたのが、第2世代の戦後本格的に活動をはじめた作家たちを中心とする「5人展」である。
 その中心メンバーの安谷屋正義(あだにやまさよし)、安次嶺金正(あしみねかねまさ)、玉那覇正吉(たまなはせいきち)は昭和の10年代に東京美術学校を卒業した世代であり、この世代が再現性を中心とする前の世代に対してはじめて「表現」「造形」「形式」と「内容」を問題とし、展覧会のたびにパンフレットを作成し、自らの造形理念を自分の言葉で語ったのである。
 この世代は戦争によって徹底的に破壊された沖縄の現実から出発した。戦後になってモダニズムが始まったとされ、この5人展の活動をさして言われるのだが、第1世代が「何を」描写するかを問題にしたとすれば、第2世代であるこのグループが目指したものは「いかに」表現するかであった。とはいえ、そこには沖縄の風土をいかに取り込めるかということが常について回ったのである。それは明治後期から大正までの日本の美術の流れを彷彿とさせる。
 彼等の言葉には、当時の第1世代の技術中心主義に対する批判が見られる。たとえば5人展の理論的リーダーであり、50、60年代を通じて沖縄の美術界に多大な影響力をもち続けた安谷屋正義はこう語っている。「リアリズムを感覚乃至技術の発展段階と誤解するな」(第8回5人展 1953.12.4〜12.6)
 また、モダニズムの絵画の普遍性につながる造形=形式についても「自己の作品に永遠性を与えんと欲すれば欲するほど、その仕事は純粋になってきます。絵画であればより造形的になり、平面的になって来るのは当然のことと思います」(第6回5人展 1952.9.13〜9.15)
 また、民芸派のような「南島イメージ」的な発想は実作者としては考え難いと批判している。名渡山愛順や大嶺政寛の風土の予定調和的な表現について、暗に北から見た南島のイメージを提供しているだけにすぎないのではないか、沖縄にはもっと複雑な現実があり、その現実を捉える形式こそ問題にしたい旨述べている。さらに、前衛を標傍するグループに関しても「その形式の生まれ出た原因を追及しようとはせず」モードと同様に飛びついてしまうことをいましめている。

 5人展はグループとしての活動の意義が終わったとして1954(昭和29)年に解散する。5人展解散の4年後の1958(昭和33)年、安谷屋正義、安次嶺金正、玉那覇正吉と、あらたに安次富長昭(あしとみちょうしょう)が加わり、創斗会(そうとかい)が結成された。創斗会は会員を広く募集し、研究会を行なった。芸術の啓蒙的な運動を目指し、作品の批評会を倉庫を利用して行なったりした。創斗会は十数年続くが、実質的な研究会組織としては安谷屋の死で終わったと思える。




 
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