この時期は、米軍政府のきわめて迅速な難民対策と文化の保護育成政策に特徴がある。
それは実際の軍政担当が海軍であり、担当将校が学者軍人であったことから沖縄に民主主義社会を樹立し、文化を保護しようとしたことがその政策に反映していたといえる。勿論、本国政府の沖縄の統治方針もあるが、いずれにしろ、直接の政務担当であったハンナ将校は東アジアの歴史、文化に造詣が深く、今回の沖縄占領が沖縄の住民にとって日本軍国主義からの解放であるという認識をもっていたのである。沖縄の民衆が独自の文化に目覚め、振興し、アイデンティティーを確立することによって、日本との差異を明確にし、分断政策をやりやすくすることも勿論もくろんでいたわけであるが、そのためには文化の保護育成が急務であると考えたのである。それは沖縄の暗いアメリカ統治のなかで唯一の明るい部分であり、きわめて成功した例であるが、反面、美術において政治的、社会的表現がにぶくなる要因となった。
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