米軍の文化保護政策時代


第1期 1945-1949

 

 

 この時期は、米軍政府のきわめて迅速な難民対策と文化の保護育成政策に特徴がある。
 それは実際の軍政担当が海軍であり、担当将校が学者軍人であったことから沖縄に民主主義社会を樹立し、文化を保護しようとしたことがその政策に反映していたといえる。勿論、本国政府の沖縄の統治方針もあるが、いずれにしろ、直接の政務担当であったハンナ将校は東アジアの歴史、文化に造詣が深く、今回の沖縄占領が沖縄の住民にとって日本軍国主義からの解放であるという認識をもっていたのである。沖縄の民衆が独自の文化に目覚め、振興し、アイデンティティーを確立することによって、日本との差異を明確にし、分断政策をやりやすくすることも勿論もくろんでいたわけであるが、そのためには文化の保護育成が急務であると考えたのである。それは沖縄の暗いアメリカ統治のなかで唯一の明るい部分であり、きわめて成功した例であるが、反面、美術において政治的、社会的表現がにぶくなる要因となった。






1.沖縄諮旬会からニシムイ美術村まで

 
 太平洋艦隊司令長官C・W・ニミッツの布告第1号(米海軍軍政府布告第1号)によって1945(昭和20)年4月5日、軍政府の設立と日本政府のすべての行政権の停止がなされる。それを受けて米軍政府の諮問機関として8月20日、中部地区石川市東恩納にて沖縄諮旬会(おきなわしじゅんかい)がスタートしたが、組織の14部の中に文化部が設置された。
 特に学者軍人であるジェームズ・ワトキンス海軍少佐やウイラード・ハンナ大尉は、沖縄の伝統文化の保護育成にきわめて熱心であった。芸能家や画家たちを集め、米軍部隊や住民のために公演させ、石川市東恩納の民家を修復して博物館をつくり、展覧会を開き、戦禍で破壊、散逸した文化財を収集した。やがて文化部の下に芸術課が設置されると、「美術技官」という職名で美術家たちが集められ、職を与えらた。仕事内容は、後進の指導、各地での展覧会の開催、米軍の注文に応じて風景画や風俗画を描くこと、クリスマス・カードの作成などであった。1946(昭和21)年には石川と首里に博物館ができている。
 1948(昭和23)年、軍政府の南部への移動にともない、文化部が廃され、官職としての美術技官の資格も解かれた。新たに活動拠点を捜すことになった画家達は、首里儀保にある通称ニシムイをアーティスト・ヴィレッジとして選び、そこにアトリエ付住家をつくって移り住み、活動を再開した。
 シュリ・アート・コロニーの美術家達は山元恵一(やまもとけいいち)、金城安太郎(きんじょうやすたろう・日本画)、安谷屋正義(あだにやまさよし)、名渡山愛順(などやまあいじゅん)、大城皓也(おおしろこうや)、屋部憲(やぶけん)、玉那覇正吉(たまなはせいきち)、具志堅以徳(ぐしけんいとく)らであった。当時は米軍の家族の肖像画や風景画が良く売れたが、物資のないため、初期のころはほとんどタバコ(売って貨幣にかえる)との物々交換であった。


2.「沖展」の創設


 アメリカが沖縄の長期領有を決めた1949(昭和24)年、これら西森の美術家たちと近くに住んでいた作家たちとの交流のなかから、戦後の美術活動プランが出てきたのであろう。地元の新聞社沖縄タイムス社が中心になって、沖縄タイムス社1周年記念事業「沖縄美術展覧会」(後「沖展」)第1回展が開かれたのである。沖展は「歴史的文物に刻まれた敗戦の傷痕の深さを埋める」事業として大きな役割を果たした。気心のあった作家同士の狭い世界から一気にフォーマルな世界が開け、これまで一握りの教員中心であった美術の世界を一般の人々に押し広げ、若手作家を育てる素地を作った。
 第1回展では大村徳恵の作品がタイムス賞を受賞している。当時の人々が住んでいたテント小屋の風景を描いたものであるが、現在はその作品はない。当時の生活を活写した作品はほとんど残っていないし、それほど多くの画家が描いたとは思えない。







 
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