沖縄県文化国際局 文化振興課 主査 翁長直樹
1.沖縄戦後美術史とは
果たして戦後沖縄に独立した美術史が存在するか。沖縄の戦後美術の流れを追っていくと、欧米の美術の流れが日本本土経由で時をずらして再現されているともいえる。しかし、日本も含めたアジア美術を眺めると、ほとんど西洋のコピーとはいえ、それが少なくとも100年以上続いており、各地において、それぞれ異なる色合いに染め上げられてきたことは確実であろう。であるならば地理上の位置、歴史、風土ともかなり日本本土と異なる沖縄には特有な美術の流れがあると考えるのは当然といえよう。勿論、戦後の沖縄の美術は自律的、内在的に変化してきたのではないので、戦後の沖縄の美術史に影響を与えたとおぼしき、独特な社会的要因を考えてみることが沖縄の美術の特色に繋がってこよう。
2.沖縄の戦後美術を規定してきた社会的要因
沖縄の戦後美術史を規定してきた社会的要因は3つ考えられる。
第1の要因はアメリカとの関係である。これまで沖縄の戦後美術に対するアメリカの直接的影響はほとんどないとされているのであるが、エリートの美術家を終戦直後、軍政府が直接的に雇用したのを始めとして、その後十数年間は美術家は米軍の家族の肖像画などで一般の沖縄の人々より豊かな生活ができたのである。とはいえ、20数年間に渡る米軍統治下における文化の保護育成政策と沖縄住民への人権無視というアンビバレンツは、大きな現実として美術家の前に存在していたのである。
第2の要因は日本との関係である。戦前から沖縄の画家達にとって本土の団体展に入選し、賞を受賞し、会員になるのが大きな目標とされていた。それは狭い沖縄のなかでは自分の芸術の実力がどの程度なのか不安であり、「客観的」な評価を得たいということと、自分の仕事を社会に認めさせ、社会での安定した地位を得るためでもあった。それはやがて本土に追い付き、追い越せという、対抗意識に変化し、団体展の会員が増えてくる70年代になると各支部が県内に結成されるようになる。欧米の前衛運動や西洋美術の様式、美術思想は美術雑誌から日本本土経由で入って来た。また、米陸軍省後援による米国留学は1972(昭和47)年までに1,110人に上ったが、どういうわけか美術、音楽は対象外とされていたので、画学生は琉球大学以外は日本本土の美大で学んだのである。
第3の要因は県内におけるアカデミズムとジャーナリズムとの関係である。新聞社(沖縄タイムス社)とアカデミズム(琉球大学)が一体となって県内最大規模の総合美術展「沖展」を育て上げた。すくなくとも戦後70年代までは「沖展」において作家は育ってきたといえる。また、80年代後半に設立された県立芸術大学も90年代に入り、影響力が目に見えるようになった。
3.沖縄戦後美術の特色
沖縄の戦後美術史の特徴は、1.琉球王府時代の絵画の伝統は断絶し、日本本土から入って来た洋画が主流であることと、2.モダニズムの受容が戦後行われ、アンティ・モダニズムが群として出てこなかったこと。それは土着的前衛グループを生まなかった。3.政治的、社会的メッセージ性のある作品が少ないこと。4.日本的な画壇のヒエラルキーがないことなどが挙げられる。
4.沖縄戦後美術の時代区分
沖縄の戦後美術史は大きく4期に分けられる。
第1期は終戦から1949(昭和24)年の「沖展」開催までの4年間である。この時期は沖縄の美術の復興期で、画家たちが軍政府に集められ、美術技官として従事し、その後ニシムイの美術村が建設されるまでで、米軍政府の援助が大きな影響を与えた。
第2期は1950年代から70年代前半までで、モダニズムが開始され、反造形主義やネオ・ダダ的なグループ活動が出てきて終焉するまでである。
第3期は復帰から70年代全般を通じて本土の団体展への系列が進む時期である。
第4期は80年代以降で、展示スペースが増大し、芸術大学が開学し、日本のバブル的消費経済がポストモダン的文化と共に沖縄の社会、文化に影響を及ぼす。また、沖縄が主体的に文化を発信しようとする時期である。
|