遊びとハブ退治

 私は1946(昭和21)年3月に生まれた。どこで産声をあげたのかは聞いたこともないし、聞こうともしなかったが、久米島出身ということだからたぶんそうなのだろう。
 母は39歳で初めて子を宿した。南洋と呼ばれていた島々の、ある小さな島でのことである。戦争は敗け戦となり、カタツムリを食べ、飢えをしのいでいたにもかかわらず突然、母は妊娠した。すでに子どもをあきらめていた歳の出来事だった。
 母の“出産物語”のクライマックスは、南洋から引き揚げる船上でのことだ。大勢の人たちが積み込まれていたが、一人のアメリカ兵が、母が妊婦であることを知ると、特別室に入れ、おいしいものを与え、それはそれは大事にしてくれたそうである。母は「思いやり」「やさしさ」という言葉を何度も口にした。そして私が頭を出し、その後から姉が続いた。二卵性双生児だった。

 腹の中でアメリカ兵に接した私は、人並み以上にアメリカ兵に親近感を持っていたようだ。1959(昭和34)年までの小学生時代は、「ギブミー」を巧みに使いこなし、口にはガムやチョコレート、手には野球ボールやゴムボールなどを握っていた。
 その時代はスクラップブームで、鉄くずを集めて金に替えることに必死になっていた親に、狩り出されることもしばしばだったが、ゲッチョー、パッチー、タマグヮークァエー、エスケン、コールマーなどで遊んだ。
 ゲッチョーは、簡単に言うと板きれを飛ばして遊ぶもの。パッチーは標準語のメンコである。タマグヮークァエーはビー玉を穴に入れたり、当てたりして相手のビー玉を自分のものにする。クァエーは喰いあうというか、奪いあうというニュアンスで、たくさん集めた。エスケンは、地面にSの字を描き、片足でケン、ケンと飛び跳ねて相手の陣地に入る、いわゆる陣取り合戦だ。コールマーは独楽(こま)遊び。どれもこれも単純な遊びだった。

 このほかに、私が大好きだったのはゴムカンである。
 Yの字のような木の枝を見つけ、その先にゴムを結ぶ。ゴムに草の茎を折ってつけ、ゴムを引く。そこまでは低学年だ。知恵がついてくると、木の枝ではなく頑丈なハリガネを用いた。ゴムもひとつではなく切れないように頑丈にした。そして茎もハリガネに変わった。さらに改良をすすめ、Yではなく鉄砲の形にして飛距離を伸ばした。武器が生まれ、子供たちの「戦争」がはじまった。
 戦場となったのは、現在の那覇のダイエー一帯である。やたらと墓地が多く、ナナチバーカー(七つ墓)もあり、幽霊話が絶えない所だった。そんな怖いところで、あるときは赤胴鈴之助、あるときは月光仮面、またあるときはハリマオーになって戦ったが、私は、それらの主人公にはなれず、いつも子分役で、隠れてばかりいたような気がする。
 ところがある日、私がヒーローになる時がやってきた。それはいつもの学校帰り、戦闘がはじまった時だった。墓地に身を隠し、敵を待っていた私の前に、突然ハブが現れたのだ。私は、すでに戦闘態勢にあったせいか恐怖感はなく、とっさにゴムカンをひいた。そこに、私を見つけた友だちもやってきて一斉射撃、ハブを退治した。
 それが唯一、私の子ども時代の自慢話なのである。


糸数和雄(いとかず かずお)
フリーライター。地元新聞社勤務を経て、1995年から雑誌『シルバーエイジ』発行。2000年、小説『死者たちの切札』発表。

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