戦後沖縄の道 概要TextPhoto1Photo2

 1945(昭和20)年4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は、軍需物資を積んだトラックを搬送するため、戦闘を続けながらも破壊された道路や橋を改修した。幅が狭く、雨が降ると泥沼に、晴れるとホコリが舞い上がるそれまでの道路は、こうして次第に整備されていった。
 当時の陸路を走り回ったのは、米軍の車輌集積所(モータープール)のトラック(GMC)だった。収容所の住民や捕虜への食料運搬、物資輸送に活躍し、沖縄人(ウチナーンチュ)の運転手は時代の花形職業としてもてはやされた。

 米軍は番号で道路をよぶように決め、沖縄本島を縦に縦断する道路に奇数番号、幹線道をむすぶ横断道路に偶数番号を割り当てた。
 那覇と名護をむすぶかつての国頭街道は、国頭村奥まで延長して「1号線」となった。明治橋から本島南端の喜屋武岬までは「3号線」。南北に縦断する道としては、玉城村親慶原(おやけばる)から中央を貫いてコザ市呉屋をむすぶ「5号線」、糸満から東海岸沿いに与那原、国頭奥をむすぶ「13号線」があった。

 米軍政府時代の沖縄の幹線道路は、多くが米軍の軍道のため全線が舗装されていたが、琉球政府が管轄する政府道の整備は、軍道よりはるかに遅れていた。
 1972(昭和47)年5月15日に本土復帰した沖縄では、県内のすべての道路に本土の道路法が適用された。それまでの軍道・政府道・市町村道は、一般国道・県道・市町村道へと変わり、1号線は国道58号線、44号線と13号線は国道329号線、5号線は330号線、3号線・64号線・44号線は国道331号線などとよばれるようになった。
 なかでも、鹿児島市山下町を起点に種子島・奄美大島を経由して、那覇市奥武山町(明治橋)を終点とする国道58号線は、海上に道路を想定した初のケースとなった。
もどる