自動車が沖縄にやってきたのは1916(大正5)年5月。那覇区西本町の大坪商店が1台輸入し、糸満、名護など沖縄本島各地を走行して付近の人々を驚かせたと当時の新聞にある。
また、翌年には沖縄自動車(株)が設立され、乗合自動車(バス)が登場した。
1919(大正8)年には、国頭郡出身で米国帰りの青年実業家、山入端隣次郎らによりバス会社が設立。5〜6人乗りのフォード社製の自動車が、開通したばかりの国頭街道を走って那覇−名護間をむすんだ。
その後は自動車会社が次第に増え、1940(昭和15)年には10社130台となった。バス会社のほとんどは那覇の西新町大通りにあって、そこを始発点としていたが、与那原を始発点として佐敷や泡瀬を走るバスや、勝連・屋慶名・金武を走るバスもあった。
乗合自動車の出現は、沖縄の交通事情にとってかつてないほど大きな変化をもたらすものであった。軌道馬車が廃業したほか、首里−那覇間に走っていた電車も、1933(昭和8)年には廃業に追い込まれている。乗合自動車という名称もこのころからバスとよばれるようになり、大衆の足として定着した。
沖縄戦で壊滅状態になった時期はあったものの、鉄軌道が再建されなかったこともあって、戦後の沖縄の社会は急速に車社会となり、モータリゼーションの波に飲み込まれることとなった。 |