普天間街道は、首里の平良から浦添の経塚・仲間・伊祖・当山・嘉数を経て、宜野湾の普天間に通じる街道。
1902(明治35)年開通し、中部地方の農産物を首里・那覇へ運ぶ主要な道路となったが、それより以前、尚賢王が普天間宮を初めて参詣した1644年から、参道として整備されてきた。普天間参りは、やがて琉球王府の年中祭祀に準じて王族や士族たちのあいだに定着。18世紀ごろには農民の間にも広まったという。
約5キロの普天間街道の両側には、尚貞王の世子、尚純(1660−1706年)の命で植えられたといわれるリュウキュウマツが林立し、大木がつくる木陰が普天間宮参りの旅人に涼をもたらした。人々は「宜野湾並松(ジノーンナンマチ)」の名でこの街道に親しんでいたが、やがて、1922(大正11)年に、那覇−嘉手納間に沖縄県営鉄道が開通すると、街道の利用者は次第に減少した。
1932年(昭和7)4月に天然記念物の指定を受けた2000本を越すマツ並木は、戦争中の1944(昭和19)年3月ごろには、防空ごうの支柱や米軍の障害物にする目的で日本軍によって伐採された。
宜野湾の中心を南北に貫いていた普天間街道は、戦後になると米軍普天間飛行場として大部分が軍用地にうばわれ、滑走路の下に消えた。また、南北の結節点である嘉数と普天間にわずかに残っていたマツも、台風やマツクイムシの被害で倒れたり商店街の発展にともなって伐採され、現在はまったくその姿をとどめていない。 |