近代沖縄の道 概要TextPhoto1

 明治に入った沖縄では、さまざまな制度が新しくなったにもかかわらず、道路や交通機関に関する状況は放置されていた。荷車や荷馬車が通れる道は本島内でもわずかで、残りは未整備のままだったため、貨物の運搬は人や馬にたよる状態であった。
 しかし、1884(明治17)年11月、県令(現在の知事)の西村捨三が、首里−那覇間の道路を砂利敷に改修し、近代沖縄の道路改革の幕を開けた。1886(明治19)年には、廃藩置県後に新設された「車道」の第1号とされる首里−与那原間の道を新設。那覇−首里間の約5キロ、首里−与那原間の約9キロの道路も改修された。
 1902(明治35)年1月には首里−普天間をむすぶ普天間街道が開通、1904(明治37)年1月には那覇泉崎−佐敷間切をむすぶ佐敷街道が、1908(明治41)年3月には糸満街道が開通した。そして、翌年の1909 (明治42)年、特別町村制で間切(まぎり)が町村へ移行すると、各郡とも道路改修に着手し、県もまた県道の改修工事を一段と進めるようになった。
 また、県道と平行して、地域の発展や農業の発展のため、各地で「郡道」の開通や道路改修が相次いだことから、沖縄における道路網は急速に整えられていった。
 1915(大正4)年6月には、それまで海上路に頼っていた那覇と名護間に、県下最大の国頭街道(くにがみかいどう)が開通。中頭郡では泡瀬・勝連間の新街道が、1918(大正7)年4月10日に開通した。

 さらに、1919(大正8)年12月に県庁、1925(大正14)年6月に那覇警察署が美栄橋に移転すると、警察署前−安里間をむすぶ「新県道」が1933(昭和8)年12月に開通した。現在の国際通りの前身である。
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