長虹堤TextPhoto1Photo2

 長虹堤(ちょうこうてい)は、那覇の崇元寺前の安里橋から、若狭町村のイベガマまでの海上の道。15世紀中ごろから今世紀の初めまで、およそ500年わたって那覇と首里をむすんできた重要な道路であった。
 「浮島」という島だったかつての那覇は、首里への往来に船が不可欠で、中国からの使者、冊封使(さっぽうし)が来琉した際には、橋のように船を並べて渡したほど、たいへんな不便を強いられていた。
 そのため、尚金福(しょうきんぷく)王は、自分の冊封に来る使者の往復の便をはかるため、満潮でも自由に通行できるような道を建設するよう国相の懐機(かいき)に命じた。
 懐機は、深い海と荒れる波を見て、とても人の力だけでは無理だと考え、三日間ひたすら神に祈り続けた。すると、不思議なことに海の水が引いたので、人民を動員してたった7日で石橋を完成させた(琉球の史書『球陽』)。
 長虹堤の完成は冊封使が来琉する前年、1451(尚金福2)年のことで、これ以後、首里と旧那覇(東村・西村・若狭町村・泉崎村)の往来には、この道が使われるようになった。
 約1キロの間に7(または8)の橋をもつ道は、「遠望すれば長虹のごとし」とたとえられ、1633(尚豊13)年から「長虹堤」とよばれるようになった。その後、周辺の埋め立てがすすんだことから、1735(尚敬23)年には1つの橋だけを石橋にして残し、まわりを陸地化した。この橋が、戦前まで現存した美栄橋(みえばし)である。
 琉球最古の石橋を持つ長虹堤も、近代になると、泊高橋を経由して首里−那覇間をむすぶ電車の開業(1911年)や、1934(昭和9)年の新県道(現在の国際通り)開通などにより、次第に華やかさを失った裏通りとなり、現在は通りの一部が「十貫瀬(じっかんじ)」の道として残るだけになっている。
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