宿道(しゅくみち)は、首里王府と各地の間切(まぎり=現在の市町村)をむすぶ、幹線道路といえる。首里からの情報は、その道を通って中頭(なかがみ)・国頭(くにがみ)・島尻に伝えられた。これが宿次(しゅくつぎ)とよばれる情報伝達システムで、南北ともに西(いり)回りと東(あがり)回りのルートがあった。
宿道の基礎をつくった尚巴志(しょうはし)は、『琉球国由来記』(1713年)によれば、一定の距離ごとに宿場を設けて、そこに備えた馬などで文書などを送る「駅」の制度を始めたとされている。三山統一後の安定を図るためにも、速やかな情報の受発信が必要だったのである。
沖縄の代表的な歴史家の一人、東恩納寛惇(ひがしおんな かんじゅん)は、首里王府の情報が各間切に伝えられたルートを、『南島風土記』のなかで以下のように記している。
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【1】東宿(あがりじゅく)
西原間切(以下間切省略)→宜野湾→越来→美里→金武→久志→羽地→大宜味→国頭(名護・今帰仁へは羽地から、本部へは名護から届く)
【2】西宿(いりじゅく)
浦添→北谷→読谷山→恩納→名護→本部→今帰仁(羽地へは名護から、大宜味・久志へは羽地から、伊江島へは本部から、伊平屋島へは今帰仁から届く)
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【1】東宿(あがりじゅく)
西原→宜野湾→中城→具志川→勝連・与那城
【2】西宿(いりじゅく)
浦添→北谷→読谷山→越来→美里 |
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【1】真和志宿(まわしじゅく)
真和志→豊見城→小禄→兼城→高嶺→真壁→喜屋武→摩文仁
【2】南風原宿(はえばるじゅく)
南風原→大里→佐敷→知念→玉城→東風平→具志頭 |
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