琉球では、按司(あじ)とよばれる地域の実力者が12世紀ごろから登場し、13世紀には城塞としてのグスク(城)を築き、武力で周辺の人々を従えていた。その結果、14世紀ごろになると、北山(ほくざん)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)という三つの国に大きく分かれ(三山時代)、たがいに勢力争いをくりかえすようになった。この時代の道は、集落内の生活の道であると同時に、各グスクをつなぐ道で、ひとたび争いが起こると、たちまち「闘いの道」にもなった。
1429年に三山を滅ぼし、統一国家をつくった尚巴志(しょうはし)によって、王府と地方をむすぶ道路として「宿道(しゅくみち)」がつくられたといわれている。首里からの情報は、各地の間切番所(まぎりばんじょ=現在の役場)を経由し、中頭(なかがみ)・国頭(くにがみ)・島尻地方に伝えられたのである。このシステムが「宿次(しゅくつぎ)」とよばれるもので、各間切と首里城の間では、ときには早馬を使って緊急の連絡を行うこともあった。
一方、15世紀ごろの琉球は、中国・朝鮮・日本・東南アジアとの交流が盛んになり、中継貿易によって大きな利益をあげるようになっていた。第二尚氏王統の第三代国王である尚真の時代(1477〜1526年)になると海外交易は頂点に達し、そこで得た豊かな富をもとに、琉球王府は数々の土木事業などを行い、国内の整備に力を入れた。
首里城と那覇港南岸をむすぶ、真珠道(まだまみち)の道路整備はその一つである。
それは、当時としては大土木工事であったが、中央集権制度を確立し、身分制度、行政機構、神女組織なども次第に整えていった尚真王にとって、首里だけでなく中央と地方をむすぶ道路網の整備は不可欠なものであった。単に人や物が行き来するためだけではなく、情報を伝達するという重要な役割を、道は次第に担うようになっていったのである。 |