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 「奈良原がいるかぎり、沖縄の人々はゆたかになれない」と思った昇は、かれのわがままぶりを明治政府にうったえたが、奈良原をやめさせることはできなかった。
 そこで昇は県庁をやめ、沖縄の人の権利をかくとくするために、仲間といっしょに「沖縄クラブ」というグループをつくり、『沖縄時論(おきなわじろん)』という本で奈良原のわがままぶりをあばいた。
 これに対し奈良原は、新聞社を味方にして「沖縄クラブ」をひはんしたため、謝花昇らの「沖縄クラブ」は2年でつぶれてしまった。

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謝花昇像(じゃはなのぼるぞう)
 仕事をなくし、これまでの運動にすべてのお金を使いはたした昇は、悲しみの中、仕事を求めて山口県に向かった。しかし、そのと中の神戸駅でとつぜん気が変になってたおれた。
 それから沖繩に帰ってきた謝花昇は、7年後、病気が直らないまま44さいという若さでこの世を去った。

 あらゆるときにも農民の立場で、沖縄の人々の権利をかくとくするために戦った謝花昇の運動は、実を結ばなかったものの、その勇気ある行動は多くの人々の心に残り、今も語りつがれている。
 

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