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改決羽地川碑記(かいけつはねじがわひき)
 農民たちを苦しめていた羽地大川(はねじおおかわ)の工事は、蔡温みずから指どうした。羽地は稲作がさかんなところにもかかわらず、台風や大雨で羽地大川がたびたびはんらんするため、作物が流され農民たちをこまらせていたのだ。
 蔡温は中国で勉強してきたことをもとに、川のせいしつを考えながら工事をすすめた。堤防(ていぼう)や用水路ができあがると、川のはんらんがなくなったため、イネがたくさんとれるようになり、農民たちは大いに喜んだ。

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蔡温松(さいおんまつ)
 蔡温はまた、家や船をつくる木が必要になると考え、山に木を植えるように命じた。さらに道の両がわに琉球松を植えて道をきれいにしたため、島には緑がいっぱいになった。
 しかし、八重山に新しい村をつくる目的で引っこしさせた人々が、マラリアという病気にかかって、大ぜい死ぼうするという失敗もした。

 年老いた蔡温は、農業のやり方や政治(せいじ)のあり方などを書くことにせんねんした。そのため、蔡温が80さいでこの世を去ったあとも、かれの書き残した本は、政治家たちのお手本となり、首里城(しゅりじょう)にはつねに蔡温がいるかのようだったという。
 

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