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 順則が12さいの時、父が中国で病死してしまった。その知らせを受けた母は、悲しさのあまり夫のあとをおって死のうとするが、「自分が死んだら子どもたちはだれが育てるのか。私が子どもたちをりっぱに育てよう」と決心し、子どもたちに父の残した本をあたえた。順則も母のきたいにこたえるように勉学にはげんだ。
 14さいになった順則は、久米村にあるじゅくへ通いはじめた。このころ学校はなく、勉強するためには自分で本を読むか、じゅくに通うしかなかった。そして、20さいの時、順則は中国に留学(りゅうがく)した。
image 中国では、陳元輔(ちんげんぽ)先生からいろんな学問を学んだ。ねるまをおしんで勉強する順則のようすをみて、「程順則は学問にすぐれているだけでなく、心も広く考えが深いりっぱな人である。教えたことはすべて理かいし、学問をするにあたいする人とは、まさに程順則のことだ」と陳元輔はほめたたえた。

 琉球にもどると久米村の学校の先生になり、教育者としての道を歩き出した程順則だったが、人に教えるにはまだ学問がたりないと考え、ふたたび中国をおとずれた 。
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