6.国際交流に果たす海外移民の役割
沖縄県における海外移民が国際交流に果たす役割についてみると、これまで以下のようなことが指摘されてきた。[1]移民の歴史は沖縄県の国際化意識の形成に大きく寄与してきた。戦争を挟んだ100年間の移民の歴史は、沖縄県民の海外への雄飛、海外への志向を強く引き出してきた。[2]海外の移民はその国で根付き、沖縄県とその国との人的ネットワークを形成し、それを通して沖縄県の国際交流の促進に大きく寄与してきた。[3]移民の多くの住む南米は、長く経済的な混乱がつづき、現地の人々は厳しい環境下にある。このようななか、日本で就業するため多くの移民子弟が日本へやって来ている。この海外移民や日本に来る移民子弟への沖縄県民の対応は、沖縄の国際交流の基本的なあり方、姿勢を問うものである。
ここで、第2次世界大戦前および戦後を通し、沖縄県の国際交流と称してもよく、海外移民ともっとも関係の深い団体であった沖縄県海外協会と南米の沖縄県系人の出稼ぎについて取り上げる。
(1)沖縄県海外協会
沖縄県海外協会は沖縄県出身移民の保護奨励・知識の普及・海外在留者との連絡、海外に必要な人材養成などを目的として、1924年(大正13)11月17日に創設された。同協会設立の気運は1918年(大正7)ごろから県内外の有識者間に広まり、とくに海外在留の県移民からの要請が強く、なかでも北米カリフォルニア州の太田蒲戸・奥武朝道・平良新助やハワイの小波津幸秀などの長年の努力により実現した。同協会の創設当時の規則をみると、第1条の協会の名称・事務所所在地のほか、目的・事業・会員・役員、役員の任務や任期、総会・会員・支部会などの規定があり、全16条からなる。その後同規則は若干の修正が施され、全18条に改正されたが、骨子は当初の規則と変わりがなかった。
沖縄県海外協会は創立1年後の1925年(大正14)12月25日、機関紙としての『南鵬』を創刊(創刊号・第1巻第1号)した。その後『南鵬』の第2巻第1号が1926年(大正15)12月15日に、第3巻第1号が1927年(昭和2)8月1日に発刊されたが、その続刊号がみつかってないので、『南鵬』は結局この通巻3号でもって廃刊になったのではないかと考えられる。『南鵬』の編集人は沖縄県海外協会の幹事であった又吉康和がつとめ、その内容をみると、移民に関する論説・資料・通信のほか、随筆・俳句・短歌・狂言などがあり、実に多彩であった。
第2次世界大戦前の沖縄県海外協会の事業実績としては、この会報としての機関誌発刊のほか、渡航者の教養、渡航手続き一切の世話、渡航相談部・帰朝者倶楽部の設置、海外在住者の留守宅訪問、講演会・座談会、第2世の慰問激励などがあった。とりわけ、1934年(昭和9)6月11日に落成した那覇市若狭町に建設された移民のための会館、開洋会館の維持管理と、ブラジルにおける沖縄県移民解禁運動に果たした役割は特筆すべきものがあった。しかし、この沖縄県海外協会も第2次世界大戦の敗戦により自然消滅した。なお、同協会は官民合同で設立されたが、会長は代々沖縄県知事が兼務した。
第2次世界大戦後は1948年(昭和23)アルゼンチンへの呼寄移民の再開に刺激され、海外協会再建の声がおこり、同年10月沖縄海外協会として再発足し、会長に松岡政保が選任された。同協会は1953年(昭和28)5月全琉球を網羅する組織として琉球海外協会へ改組し、稲嶺一郎を会長とし、1964年(昭和36)8月社団法人沖縄海外協会と改称し、従前の業務を継続した。日本復帰に伴い1973年(昭和48)4月、社団法人沖縄県海外協会と改称し、1989年(平成元年)3月末日をもって同協会は解散したが、その間平田忠義、瑞慶覧長仁などが会長をつとめた。なお、同協会が果たしてきた諸業務は、1981年(昭和56)4月1日に設立された沖縄県国際交流財団に引き継がれている。
戦後の沖縄県海外協会の主要な業務は、[1]沖縄県の移住政策並びに国際協力事業団の業務に協力すること、[2]海外移住関係団体との連絡・提携、[3]海外移住に関し県から委嘱された業務の遂行、[4]機関誌『雄飛』の発行、[5]そのほか県民の海外移民促進に必要と思われる業務、などであった。また、同協会の業績は海外移民促進大会を開き、敗戦後の沖縄県民に移民の啓蒙を行ったり、ボリビア開拓移住の実施に尽力したこと、1975年(昭和50)沖縄海洋博の年には海外から多くの移民の参加をえて、県史上初の「海外在住沖縄県人大会」を開き盛会であったこと、などである。
同協会機関誌『雄飛』についてみると、1951年(昭和26)11月1日創刊号を発刊して以来、1989年(平成元)2月10日発行の第44号(総目次編)をもって終了し、ほかに4篇の特集号も発刊した。『雄飛』は海外の沖縄県移民を中心とした移民関連を扱った機関誌で、全国的にみてもユニークな雑誌であり、その貢献は大なるものがあった。
(2)南米の沖縄県系人の出稼ぎ
1984年、85年ごろから南米に移住した日本移民の1世・2世などが、母国日本で就労するという「出稼ぎ」状況がみられた。初期のころはこの現象を日本への「Uターン」とも称していた。以後、この南米日系人の日本への出稼ぎは増加の一途をだどり、とくに、1990年(平成2)6月に実施された「出入国管理及び難民認定法」(入管法と略称)の改定以後は急増した。その要因をあげてみると、第1に日本と南米移住国との経済力の差による賃金格差の拡大にある。第2に、南米各国が政情が不安定であり、経済状況もよくなく、治安も悪かったため、海外で稼いだ方が得策だったからである。第3に、日本人の出稼ぎのさかんなころは、日本経済がバブル景気と呼ばれる好景気であり、多くの外国人労働者を必要としていたからである。
ここに、南米日系人の日本への出稼現象について、その功罪両面のあることを指摘し論を進めてみたい。まず、南米日系人の日本への出稼現象のプラスの面をみると、これまで日本のことを十分に理解していなかった、あるいは理解しようともしなかった2世・3世が、出稼ぎを通して日本語を習得し、祖国日本の風俗・習慣・文化などを理解し、日本を高く評価するようになったことである。つぎに、日系出稼者は平均して2年間で200万円ほどを貯め、帰国後その取得金を借金の返済、土地や住宅の購入、商業や生活資金にまわすなど大きなメリットを生じた。一方、日本においては中小企業の労働力補充として日系人が求められていた。なかでも日系人は「3K」といわれる、きつい、きけんな、きたない仕事、たとえば、自動車部品や電器メーカーの工員、土木建築工事の作業員、警備員、病院の看護など、日本人が敬遠するような単純労働の貴重な労働力となっていた。
日系人の日本出稼のマイナス面としては、日本への送り出し、就労にあたっては旅行会社や人材派遣会社などの仲介業者の存在があり、その間の賃金ピンハネや紹介手数料などのトラブルも少なくなかったことがあげられる。南米日系人にとってとくに問題となったのは、入管法改正以前は日本への入国や長期滞在のための査証(ビザ)の取得、全機関をつうじて賃金などの就労条件・労災補償、また、社会復帰・子供の教育・住宅問題などであった。日系出稼者を送り出した南米における日本の移民先国にあっては、日系人のたずさわる農業生産など、また、日系社会の諸行事にも若者が少なく、支障をきたしている状況がみられた。
南米の沖縄県系人(ウチナーンチュ)が、どのくらい日本に出稼ぎできているのか、その確実な数値はおさえられていない。これは南米の日系人の日本への出稼ぎも推定でしかなく、約25万人とも30万人とも言われていることからして、当然なことであろう。おそらく、海外から日本へ入国する日系人の実数はつかめないのではなかろうか。南米における日系人の日本への出稼者の送り出し国というと、日本全体の場合は、ブラジル・ペルー・アルゼンチン・ボリビア・パラグアイの5カ国があげられる。これが沖縄県の場合には、まったくといってよいどほ移住者のなかったパラグアイを除き、ほかの4カ国が対象となる。
1990年(平成2)現在沖縄県国際交流財団の調査によると、ブラジル・ペルー・アルゼンチン・ボリビアから日本への沖縄県系人の出稼者数は4万3,500人と推定されている。その後同年6月に入管法が改正され、日本への日系人の出稼者が急増したので、おそらく、沖縄県系人の出稼ぎ者もこの2倍以上にはふえたものと思われる。
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