総論 沖縄の移民
石川 友紀(琉球大学教授)
次のページへ

4.移民先国での適応力

 沖縄県は第2次世界大戦前から海外へは移民を、日本本土へは出稼者を数多く送り出していた。移民の主たる目的は現金収入を得ることである。先行移民につづき、身内・親族などの血縁や字・市町村などの同郷地縁に呼寄せられる後続の移民も多かった。
 かれらの渡航前の職業は大部分が農業であり、その主体は甘蔗栽培であった。他府県の移民に比べて沖縄県出身移民はハワイやペルーなどプランテーション耕地の契約移民として、甘蔗栽培に早く習熟し、困難でしかも自由度の少ない労働によく耐えた。また、気候的にも類似する気候帯への移動であったので、他府県移民に比べ沖縄県移民の適応は早かった。
 沖縄県系移民の現地への適応の早さは食文化にも言えそうである。しかし、それでもなお1世や2世には日本の伝統の食文化を受け継ぐものがいることも事実である。とくに沖縄料理、たとえば、沖縄そばや昆布・豆腐・豚肉使用の料理、砂糖てんぷらなどは、世界に広まった沖縄県系移民に長く伝えられるものと筆者は考えている。
 北米・南米など移民受入国において、沖縄県系移民は堅実な歩みで発展をつづけてきた。その経済的・社会的地位は中間層以上に属し、現地住民から信頼され、その評価も高く、移民社会の重要な構成員となっている。また、風俗・習慣・生活様式の異なる移民先国にあって、1世移民は正直・誠実・勤勉をモットーに、数々の苦難を乗りこえ、子や孫の成長を楽しみに、生活の向上をめざして一生懸命に働いてきた。今や、その大半は充実した老後を送っている。
 日本の海外移住は、第2次世界大戦を境に、戦前の出稼ぎ・金もうけ・錦衣帰郷的な移民から、戦後は受入国に永住・定着を前提とする移民へと変わっていった。それに伴って、各地に日系社会が本格的に根づいていった。
 海外の沖縄県出身移民はいずれの国に住もうが、移民地において、まず親睦と資金の調達を兼ねた「模合」(頼母子講)を中心とした集まりをつくる。その後に、移民の多さによって字人会・市町村人会をつくり、そのうえに沖縄県人会を組織し、政治・経済・社会・文化活動を行っている。