3.沖縄県出移民の背景
第2次世界大戦前の沖縄県における主要な出移民地域は、沖縄本島とその付属島嶼に限られていた。発祥地は本島北部の国頭郡金武村である。ついで中頭・島尻の両群へ南下し、以後再び国頭郡からの移民が多くなり、最後に付属島峡へ移っていった。宮古・八重山諸島からの移民はほとんどみられなかった。
沖縄県は1899年(明治32)から1903年(明治36)にかけての地割制の崩壊と土地私有制の施行により、これまで土地に束縛されていた人々が自由の身となり、大量の移民の送り出しがみられるようになった。沖縄本島の典型的な移民母村は、沖縄本島の羽地・金武・勝連・中城・西原・大里の6カ村があげられるが、これらの地域は概して土地を集団で共有するという地割制が早くから崩壊した地域でもあった。「土地整理」により土地の所有権が確立されたため、土地を売却あるいは抵当にして、海外渡航費の捻出が可能になったのである。
戦前の沖縄県はそのほとんどの集落が純農村地域であり、市街地を形成していたのはわずかに首里市と那覇市の両市のみであった。近世においては、沖縄は貢祖や食料の関係上、水田も多く米作が重視されていた。しかし、1879年(明治12)の廃藩置県以後貢祖の代納が認められ、1888年(明治21)の甘庶作付け制限令の解除により水田の多くが甘庶畑に代わっていった。日本本土が米作本位であるのに対して、沖縄県の農業は甘蔗と甘藷が中心となった。また、1932年(昭和7)当時の職業別世帯数(本業)でも全体の75%を農業が占め、生産物総額でも全体の45%を農産物が占めていた。同年の沖縄県の農産物を作付反別の多さの順にみると、前期の甘蔗と甘藷が圧倒的に多く、以下、米・大豆・麦・緑肥用作物・アワ・ソラマメとつづく。畜産としては、養豚が盛んで、ついでヤギとニワトリ、アヒルなどが多く、牛や馬も飼われていた。こうした営農状況は、太平洋戦争によって沖縄県が焦土と化し、アメリカ合衆国による米軍基地建設などの統治政策が始まるまでつづいた。
海外移民は経済問題とも言われる。人間はまず生きることが第一で、自給自足でない限り現金を必要とする。そのため、賃金の高いところがあれば、そこへ出稼ぎとして向かう。国内であれば東京・大阪・名古屋など大都市圏であり、北海道への移民であった。それが海外のサトウキビやコーヒーなどのプランテーションの耕地で賃金が3〜4倍あるいは5〜6倍も稼げるとなれば、当然数多くの移民がでるようになる。まさに、沖縄県から海外へ出た移民がそれに相当した。
このように、多数の海外移民を送り出した沖縄県における出移民の要因をみると、出稼ぎ、金もうけという経済的要因を基盤としたことも確かである。しかし、沖縄県の出移民の要因は、先にみた地割制廃止による新土地制度の施行のほか、移民会社・周旋人・移民指導者の存在、徴兵忌避などの社会的要因の占める比重も高く、個人的な動機も少なくない。
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