八重山舞踊

 八重山の島々には宝石のような輝きを放つ古謡や節歌が無数に存在する。自然や労働のなかで生まれた結晶のようなものだろう。生産と祭りと生活がひとつとなり、共同体との一体感をみなぎらせる巻踊り(ガーリ)などもその様なものだといえる。これらをバックボーンに首里から八重山へ渡った比屋根安弼(ひやねあんそく)によりもたらされた「伝書」をもとに、八重山古典民謡に振り付けられたのが、勤王流八重山舞踊の始まりだという。首里城で宮廷舞踊として磨かれた舞踊と違い、祭祀舞踊に感じる無垢な清々しさを八重山舞踊に強く感じる。そして、今日においても威厳に満ちた創作舞踊が創られ続けているのは驚くばかりである。


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綛掛 白保村稲の一生 仲良田節 赤馬節
綛掛
(カシカキ)
白保村稲の一生
(シラホムライネノイッショウ)
仲良田節
(ナカラダブシ)
赤馬節
(アカンマブシ)
たらくじ節 鳩間節 六調子 若船節
たらくじ節
(タラクジブシ)
鳩間節
(ハトゥマブシ)
六調子
(ロクチョウシ)
若船節
(バガフニブシ)

コラム 冠船の踊奉行、玉城朝薫

 1684年、劇聖玉城朝薫は父向明祿・玉城里之子朝致、母は章氏野国親方正恒の娘真鍋の子として首里の儀保で生まれる。王家の流れをくむ今帰仁王子の後裔である。しかし4歳の時父が死去し、8歳で祖父の家統を継ぎ玉城間切総地頭になり、知行高四十石を賜る。
 20歳になり美里王子のお供をして薩摩に上ったのを皮切りに、生涯に薩摩へ5度、江戸へ2度上っている。能「東北」の仕舞「軒端の梅」や女踊り「くりまへおどり」を島津公の前で舞ったという。「博く技芸に通じ」るだけではなく、行政官としても際立った才能を持っていた。
 1718年、朝薫34歳にして冠船初の単独での踊奉行に大抜擢される。翌年の中秋宴においてこれまでにない趣向を凝らした舞踊を披露し、冊封使一行が宿舎に帰るまでの道の両側に長い炬火を手にした数千名の人間が見送るというダイナミックな演出を手がけた。重陽の宴において琉球芸能史上初の国劇「組踊」が上演された。準備期間約1年のうちに朝薫の五番(五組)が完成され、女踊りの振り付けや宴の総合プロデュースもやってのけたのだとしたら、驚くべき才能の持ち主であったことがうかがえる。

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写真:砂川敏彦