島尻方西海道(しまじりほうさいかいどう)は、首里城正門の歓会門(かんかいもん)から喜屋武間切(きゃんまぎり)まで続く宿道(しゅくみち)。
リュウキュウマツの並木道を崇元寺(そうげんじ)まで下った道は、長虹堤(ちょうこうてい)をすぎて渡地(わたんじ)につくと、対岸の垣花(かきのはな)まで那覇港を舟で渡り、小禄、豊見城、兼城(かなグスク)を過ぎ、報得橋(むくえばし)を渡って真壁、喜屋武まで続いた。
なかでも、国王の居城であった首里城から海の玄関口である那覇港に通じる道は、重要な役目を担った琉球王府の役人や諸外国の人々が通った外交・政治の道であり、さまざまな文物が行き来した文化交流の道でもあった。歓会門から中山門(ちゅうざんもん)の下方にある道標までの道は、綾門大道(アヤジョウウフミチ)とよばれ、石や石粉(イシグー)で舗装されたりっぱな大通りであったという。
1618(尚寧30)年に創建された首里観音堂(しゅりかんのんどう)は、綾門大道を西に下った万歳嶺(ばんざいれい)という丘にあり、明治まで王府の公寺となっていた。かつては老松でおおわれ、頂に「万歳嶺碑」が建っていたが、沖縄戦で破壊されたため、現在は堂前の広場のかたわらに復元されている。
万歳嶺から西に下った道は、「官松嶺(かんしょうれい)」を過ぎ、茶湯崎(チャナザキ=現在の坂下)、現在の栄町、安里に続いていた。しかし、大正初期の新たな県道開通や、沖縄戦・戦後の開発などを経て道筋や周囲の景観は大きく変容したため、今では、かつての道筋をたどることさえ難しくなっている。 |