喜納番所(きなばんじょ)から北上する宿道(しゅくみち)は、幅が約2.4メートルの道の両側に、リュウキュウマツの並木が植えられた美しい道だったといわれる。その後、宿道は北西を通り、山田集落から山田グスク下の山道を比屋根坂(ヒヤゴンビラ)に抜け、恩納(おんな)番所に続いていた。
現在の「琉球村」近くに今も残る「真栄田の一里塚」は、一里ごとに木などを植えて目印とした道程標の一つで、旅人の休息の場でもあった。一里塚を北に600メートルぐらい進むと現れる岩がフェーレー岩で、追いはぎ(山賊=フェーレー)が出没することから、山原街道で最も恐れられていた場所だったという。
寺川矼から宿道が続く山田グスクは、三山統一期に活躍する護佐丸(ごさまる)の居城。読谷山(ゆんたんざ)方面を支配するとともに、北山(本島北部地域)に対する前線基地になっていたと考えられている。
琉球石灰岩台地上に築かれたグスクの下から、海岸線に向かってのびた宿道を利用して、護佐丸は盛んに貿易を行ったとされる。周辺に護佐丸父祖の墓、古井戸、石矼なども数多く残る街道は、文化庁「歴史の道」保存整備事業として、1988(昭和63))年度から7年間をかけて整備が進められた。
山田グスクの北側にある「山田谷川の石矼」は、琉球石灰岩の「のづら積み」によるアーチ型の橋。ヒンヤリとした山道に築かれた趣のある橋だが、現在のものは平成元年度に修復されたもの。橋の山手側にある奥まったところは、近年まで周辺住民の水浴場となっていたという。 |