比謝橋TextPhoto1Photo2

 比謝橋(ひじゃばし)は、現在の嘉手納町と読谷村の境を流れる比謝川にかかる橋。
 古くから木造の橋があったものの、壊れるたびに何度も補修をくり返したことから、1717(尚敬)5年、嘉手納寄りにあった二つのアーチを石橋にし、残った部分も1730年(尚敬18)年に石橋となった。そのいきさつを記した重修比謝橋碑記には、このときの工事で取付道路などが設けられたことや、延べ7736人の石工と人夫3万9391人が、1年7ヶ月かけてつくりあげたことなどが記されている。
 1853(尚泰6)年5月末から、6月初めにかけて訪れたペリー艦隊の調査隊は、「その橋の大きさと、自然石の堅固な橋脚は注目すべきものがあった。」とし、橋脚には三角形の橋台が洪水に備えて取付けてあったと詳細な報告した。
 沖縄戦では日本軍によって爆破されたものの、石橋の一部は戦後まで残り、美しかった往時の姿をしのばせていた。しかし、1953(昭和28)年、米軍による旧1号線(現国道58号線)の拡張工事で鉄橋脚に改築され、その姿は完全に消滅した。

 橋の下流はかつて山原船(やんばるせん)が停泊する港として知られ、周辺の間切(まぎり)から集められた砂糖がこの港から那覇に運ばれた。また、喜界島や徳之島などから運ばれた牛・馬はここで陸揚げされ、川そばの市場で売り買いされていた。

 北谷(ちゃたん)から北上してきた西海道(さいかいどう)は、現在の嘉手納基地内を抜け、嘉手納ロータリーをすぎると、通称「ウケーメー坂」とよばれる急な坂道を下って比謝橋につながった。戦前まで石畳が残っていたこの坂道には、1609(尚寧21)年、琉球に侵攻して首里城を目指した薩摩軍に向かって、嘉手納の婦人が“ウケーメー(もちがゆ)”を坂の上から流して抵抗したという逸話が残っている。
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