
|
 |
あくる年、中国からの使者が琉球をおとずれた。首里城(しゅりじょう)では、いつものようにもてなしのおどりや音楽がおこなわれた。そして、いよいよ朝薫の劇(げき)がはじまった。
すると、琉球ではじめてえんじられる、せりふのある劇のすばらしさに、かげ口をいっていた人も目をうばわれた。王様も舞台にくぎづけになり、出しものが終わると見ていた人から「おおー」とどよめきの声があがった。
こうして成功をおさめた劇は、「組踊(くみおどり)」とよばれるようになった。それから朝薫は、『銘苅子(めかるし)』『孝行の巻(こうこうのまき)』『女物狂(おんなものぐるい)』という台本を書きあげた。組踊の最高けっさくといわれるこれらの劇は、今でもえんじられている。

玉城朝薫の墓(たまぐすくちょうくんのはか) |
組踊はいろいろな人によって数多く書かれ、今日まで古典芸能(こてんげいのう)として受けつがれている。こうして沖縄の芸能に力をそそいだ朝薫だが、50さいでこの世を去った。 |
|
 |
|
|

|