●中南部の戦い(ちゅうなんぶのたたかい)
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糸満市伊敷にのこる“轟壕(とどろきごう)”。沖縄戦末期,大ぜいの避難民や日本兵がかくれすんだ。 |
首里を目ざして南下していた米軍は,嘉数高地(宜野湾)や前田(浦添)あたりで,猛烈な日本軍の反攻を受けました。4月上旬から5月中旬までの戦闘で,日本軍は主力部隊の80%(6万4000人)を失いました。米軍の被害も大きく,アジア太平洋戦争で最大といわれる2万6000人の死傷者を出しました。
沖縄本島の南部一帯は,ガマとよばれる洞くつに一般住民がたくさん避難していました。そこへ,沖縄守備軍と軍をたよってきた住民が移動してきたため,十数万人が戦火の中を逃げまどうことになりました。
米軍は火炎放射器などで攻撃をしかけ,日本兵や住民がひそむガマには爆弾をなげこみました。海からも空からも米軍の攻撃はようしゃなくつづき,おびただしい数の人命がうばわれていきました。
そうした状況のなか,一般住民を壕(ごう)からおい出したり,食糧をうばったり,スパイのうたがいをかけて殺害したりする日本兵もいました。
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