移民人物伝 花城清安(はなしろ せいあん)

花城清安の写真 花城清安は国頭郡羽地村(はねじそん)の出身で1903年(明治36)12月24日に生まれ、嘉手納の県立農林学校を卒業しました。その後、小学校の先生として教育の現場に携わりますが、ブラジル在住沖縄出身の田港(たみなと)氏の呼び寄せにより1926年(昭和元)ブラジルへ渡り、1928年(昭和3)には淑子夫人を呼び寄せました。
 初めは農業手伝い、小学校の先生などで働いていました。その後ジュキア線イタリリーで土地120ヘクタールを購入し、バナナ栽培をはじめて実業家として成功しました。1934年(昭和9)の半ばごろからはつぎつぎと土地を買いふやしました。労働者を雇い、バナナや米作の収穫を確実に広げていったのです。第二次世界大戦の直前までには、なんと150家族約600人を使用する大地主までになりました。それとともに、雑貨商も経営する忙しさでした。ちなみに、その資産は1989年(平成元年)の調べでいいますと、土地900アルケール(2,250ヘクタール)を筆頭に精米所5か所、発電所、トラクター1台、貨物自動車など、その他合わせて約4万コントス(移民時代のブラジル通貨単位)におよびます。
 1936年(昭和11)には、知人たちとジュキア地方バナナ生産者組合を設立、1946年(昭和21)にはパウリスタ果実輸出合資会社を創立していますさらに、1951年(昭和26)には花城商会をおこし、ヤンマー・ディーゼル・エンジンの販売代理店の権利も得ました。
 また、実業のほかに在ブラジル沖縄県人会の会長など、多くの公共団体の役員も務めています。1971年11月15日に創立されたブラジル沖縄文化センター(CENTRO CULTURAL OKINAWA DO BRASIL)の創立者であり、1989年6月22日ブラジルのサンパウロ市で他界された日までここで理事長を勤めました。
 清安は長年の経済的および社会的な業績が認められて、1975年(昭和50)には日本政府より勲五等瑞宝章(くんごとうずいほうしょう)を受章しました。

 清安の人柄を示すエピソードとして太平洋戦争中、サントスの日系人退去命令につづきジュキア線の日系人にも退去命令が下ったときには要注意人物としてマークされていることも省みず命をかけ必死の懇願をしイタリリーの日系人約1,000世帯を守りました。
 清安は移民の歴史体験を背景にして教職から実業家や県移民の社会的リーダーへと大変身した気骨(きこつ)ある人物として、その名を残しています。