移民人物伝 比嘉太郎(ひが たろう)

比嘉太郎の写真 比嘉太郎は、沖縄移民の歴史のなかでもユニークな人物といえます。両親が中城村字島袋(なかぐすくむらあざしまぶくろ)出身の移民一世で太郎がハワイで生まれたことから、沖縄・本土・米国と度々の往復をしたことで実に多彩な人生を体験しました。太郎はこの両国の文化や精神を知る経験から移民を語っているのです。たとえば戦争の語り部・戦災救援運動の推進・出版や映画などを通して移民の真実を深く伝えています。
 両親は1905年(明治38)にハワイに渡りました。太郎は1916年(大正5)に生まれ、二世であるゆえの人生を生きていくことになります。小さいころは、いったん沖縄の祖父母のもとに預けられます。それから、中学を中退して出稼ぎで大阪の紡績工場を最初に職を転々とします。その時、数々の就職体験から沖縄出身者への差別も感じました。やがて、ハワイの両親のもとに戻ります。1937年(昭和12)には電気技術の勉学のため再び来日、1940年(昭和15)にまた、ハワイに帰りました。まさに戦争勃発の前の年でした。
 大平洋戦争が始まると、太郎はアメリカ日系二世部隊として過酷な欧州最前線に送られました。「日系兵は前線でタマよけに使われるのだ」という偏見や差別の噂(うわさ)のもとでの召集でした。また、戦火が沖縄に及ぶと両親の郷里で通訳兵として壕の投降を呼び掛けるなどして恩師(おんし)を始め多数の人命を救いました。戦後も13万人余りの日系人の収容所を訪れ慰問しました。
 太郎は熱血漢と正義感にあふれる人で、戦後の沖縄の戦災復興運動や政治運動にも取組みました。戦争で破壊された沖縄救援の大運動をおこし、同郷人に応援を呼び掛け、多くの救援物資を送ることに努力を惜しみませんでした。
 さらに注目すべきは、1946年(昭和21)日本人だけに許されていなかった帰化権を米国の差別として抗議し、獲得に向けて大きなうねりをつくりあげたことです。当時、1946年の末から1947年(昭和22)の春にかけて米大陸の帰化権獲得期成同盟会は、ハワイの日系人たちの呼び掛けて応援運動を展開していました。このとき、太郎はハワイで発刊された(コロラドタイムス)の編集長でしたが、講演・宣伝・寄付募集などに駆け巡り、帰化権獲得(きかけんかくとく)に向けて奮闘しました。ハワイでの一大運動の展開も功(こう)を奏(そう)し、1952年(昭和27)には日本人の帰化が認められました。
 比嘉太郎ほど、愛郷心に燃えた不屈の開拓精神を貫き、移民の真実を伝えてやまない人はいないでしょう。ウチナーンチュ(沖縄人)の肝心(チムグクル)(暖かいハート)とハワイアンのホスピタリティー(歓待心(かんたいしん))を兼ね備えたハワイ移民二世といえます。

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