フィリピン移民は、大城孝蔵の功績をおいて語れないといわれるほどです。孝蔵は弱冠23歳のときに同郷の當山久三に勧められて移民の監督として初めてフィリピンに渡りました。当時、孝蔵は東京帝国大学農学実科に籍をおいていたといわれていますが、学業半ばで移民の世界に身を移すことになります。
孝蔵の生誕地は當山久三と同じ金武間切(まぎり)金武村(きんむら)で、生家は由緒ある家柄でした。成績も優秀な少年生活を送りました。當山久三は金武尋常小学校の先生で、孝蔵の恩師でもあったのです。孝蔵は十代より海外移民には興味をもち、移民研究にも早くから熱心でした。 孝蔵は1904年(明治37)2月20日、神戸から出港してフィリピン・マニラに向かいました。その後、同年4月には沖縄県移民111人が那覇港を出発。それから1935年(昭和10)までの31年間、ダバオ市アンダ街の上原旅館で病死するまで、孝蔵はその生涯を同地で送りました。 孝蔵の移民地での最初の仕事は、マニラでの過酷なベンゲット道路工事でした。工事のあと、沖縄県移民100人余りを連れミンダナオ島のダバオへ移りました。そこで、孝蔵は兵庫県出身の太田恭三郎(おおた きょうさぶろう)と太田興業株式会社をおこし、マニラ麻(アバカ)栽培で成功をおさめることになります。以後、同会社の副社長として沖縄県出身移民を多数呼び寄せ、ダバオ市の開拓に人生を捧げました。とりわけ、当時のダバオ市の開発と発展は、孝蔵の貢献が並々ならぬものであった。ちなみに、ダバオ市にはバゴセロ(バゴ・オオシロ)という地名まで残されているほどです。また、マニラ麻の動力応用麻挽機(ハゴタン)の発明にも貢献しています。
孝蔵はダバオ沖縄県人会やダバオ日本人会の創立に熱心に関わり、大きな役割を果たしました。その労が評価されてダバオ日本人会の初代会長になったほどです。ダバオ沖縄県人会の創立は1916年(大正5)で、ダバオ日本人会の創立は1918年(大正7)のことでした。
孝蔵が健康を害して世を去ったのは54歳でした。ダバオで日本人会葬が行われたほどです。一生涯を移民地で過ごした人物として知られています。
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