移民人物伝 當山久三(とうやま きゅうぞう)

當山久三家族写真 沖縄移民の歴史を代表する人物です。「移民の父」と呼ばれ、沖縄移民の送り出しに果たした役割は大きなものがあります。久三は教育者や啓蒙家(けいもうか)としても当時の沖縄社会に影響力をもつ人でした。
 久三は1868年(明治元)の11月9日に、当時沖縄県でも貧しい地域のひとつであった金武間切(まぎり)(間切は現在でいう村)の農家で生まれました。しかし、久三の生家は財産家として知られ、周囲の村人たちと違ってまったくの貧農(ひんのう)というわけではありませんでした。ところが、久三が生まれたころはしだいに家も貧しくなり、両親の手伝いも懸命にやらざるを得ませんでした。5人兄弟の長男で小さい頃はとても腕白(わくぱく)でしたが、学校の成績は優秀でした。久三は貧しいなか、のびのびとした少年生活を送りました。
 小学校卒業後、奨学金で県立師範(しはん)学校に入学します。同校を卒業すると、羽地尋常小学校の先生になりました。金武尋常小学校(きんじんじょう)では校長職も務めますが、のちに辞職、金武村(きんそん)並里の総代(区長)になります。1898年(明治31)に上京、しかし就職には恵まれませんでした。ところが、東京の古本屋で移民の本にであい、移民について強い関心を持つようになりました。同時に、当時自由民権運動を推進していた東風平村(こちんだそん)謝花昇(じゃはなのぼる)の思想にも共鳴しました。
 その後、自由民権運動が挫折したなどのことから、移民問題に情熱を注ぐことになります。1899年(明治32)には沖縄県から初めての移民をハワイへ向けて旅立たせました。2回目の1903年(明治36)には、自らも引率してハワイに渡りました。ハワイでは、半年間滞在し移民の実情を調査して沖縄に帰ってきました。
 その後、久三は移民会社の代理人になり、多くの移民をハワイや南北アメリカ大陸などに送りだしました。1909年(明治42)の41歳の時には、沖縄県の第1回県会議員にトップ当選します。
 ところが、その翌年与那原(よなばる)に住んでいた久三は自宅で病死してしまいます。葬式は金武村の村葬としておこなわれました。久三、42歳の若さでした。
 久三が2回目のハワイ移民出発のときに歌った「いざ行かむ 吾等(われら)の家は 五大洲(ごだいしゅう) 誠一つの 金武世界石(きんせかいせき)」は、当時の誇りと心意気を伝える歌として今でも広く知られています。