Photo 拡大 1920年度布哇砂糖耕地労働運動史 布哇労働研究会によって出版された1920年(大正9)の労働運動史。
Photo 拡大 ある2世の轍 1916年(大正5)ハワイ生まれの沖縄系2世トーマス太郎比嘉氏による著作。中城村喜舎場尋常小学校で学んだ帰米2世。ヨーロッパ戦線を経て1945年4月25日に沖縄戦戦災罹災者救済のために第10軍情報部付きとなり、沖縄戦に参戦。同年9月13日に帰布し、沖縄救済運動の牽引者となる。1982年6月30日ハワイ報知社発行。
Photo 拡大 イオラニパレスでエイサーを披露する団員 (ハワイ) 金武町はハワイ移民の足跡を中高生に体験する目的で移民航海体験事業を開催。金武中学校を中心に約500名の生徒が参加した。
Photo 拡大 オアフ南風原村人会会則 「南風原村人の子孫が永久に1世の移民を介されたこの地にて協同一致し、親睦する大いなる意義あるために組織された」と目的に記される。18歳以上の男性会員は1年5$の会費が義務づけられ、2年以上会費の支払いをもって正会員になることが謳われている。葬儀について一切の手伝いなどが明文化されているところに、沖縄の共同体意識の高さが伺い知れる。
Photo 拡大 サンバガラス 1955(昭和30)年頃 沖縄県人会 芸能祭にて優勝 (ハワイ) ハワイで人気を得、いろいろなお祝いに呼ばれた。
左から与那城新栄、池原辰男、仲田豊、仲田万正。
Photo 拡大 にっぽん丸甲板 金武町はハワイ移民の足跡を中高生に体験する目的で移民航海体験事業を開催。金武中学校を中心に約500名の生徒が参加した。
Photo 拡大 ハワイ・沖縄文化カルタ 2000年4月にハワイ沖縄移民百周年を記念して製作。94年頃にハワイ大学の聖田京子氏や、沖縄国際大学の大城朋子氏、鹿児島国際大学の祖慶壽子を中心として製作構想が練られた。それぞれの文化に根ざしたことばと美しい情景を紹介し、お互いの文化やことばへの理解を深めるために考案された。
Photo 拡大 ハワイから贈られた獅子(左) ハワイ在の南風原宮平出身者有志によりハワイで製作され、1950年に寄贈された。
Photo 拡大 ハワイから届いた獅子を囲んで 1950年  南風原町 初代が沖縄戦で行方不明になったため、ハワイの町人が2代目を寄贈した。
Photo 拡大 ハワイにおけるサトウキビ・プランテーションの様子
Photo 拡大 ハワイにおけるサトウキビ・プランテーションの様子
Photo 拡大 ハワイにおけるサトウキビ・プランテーションの様子
Photo 拡大 ハワイのさとうきびプランテーション労働 ハワイの初期移民はさとうきび畑の労働で、1日約10時間の労働で1日の日当は75セントであった。
Photo 拡大 ハワイパーランクークラブ ハワイパーランクークラブの皆さんの舞台。ホノルル美術館でのセレモニーで出演(1999年11月1日)。
Photo 拡大 ハワイへの移民航海体験事業の出港風景(本部港) 金武町はハワイ移民の足跡を中高生に体験する目的で移民航海体験事業を開催。金武中学校を中心に約500名の生徒が参加した。2000年7月6日、本部港を出港する「日本丸」。
Photo 拡大 ハワイランプ ホヤランプは笠があるが、このハワイランプは持ち運びが可能で強風にも火が消えることがなく大変重宝がられた。ハワイからのお土産では一番人気であった。惣慶集落では、戦後の村芝居でこのハワイランプが照明として活用されたという。
Photo 拡大 ハワイ移民2世 仲村孫盛と仲村イレーン・おとめ 1997年
Photo 拡大 ハワイ移民65周年 ハワイの夕
Photo 拡大 ハワイ移民65周年 ハワイの夕
Photo 拡大 ハワイ沖縄連合会制作Tシャツ ハワイ沖縄県人連合会が99年に製作した「ANDAGI」くんのTシャツ。95年の沖縄フェスティバル(カピオラニ公園で開催)ではクリントン前大統領がアンダギーを食して好評いただいたという。ハワイではオキナワンドーナツまたはアンダギーで親しまれる。
Photo 拡大 ハワイ州議会からの認定状
Photo 拡大 ハワイ出身者による演芸会終了後の記念撮影 (ハワイ)
Photo 拡大 ハワイ島 砂糖耕地従業員 1940年
Photo 拡大 パンチボウルで眠る沖縄県人2世(ハワイ) 第100歩兵隊に従事してヨーロッパ戦線で戦死した沖縄県系二世が眠る墓園。
Photo 拡大 安富祖利八 ハワイ第1回移民 1903(明治36)年帰郷
Photo 拡大 伊芸平三 第五回移民と長男平太郎夫婦 (ハワイ)
Photo 拡大 伊芸平八郎 (ハワイ) ハワイ大学より学士号
ウィスコン大学より修士号と博士号取得。
ハワイ大学の経済学教授として教鞭を執る。1942(昭和17)年
Photo 拡大 移民先から送られてきた物資 帰米2世トーマス比嘉太郎などの尽力によりハワイ沖縄更生会は米海軍の協力を得て、寒さに震える郷里にいち早く衣裳を送付した。
Photo 拡大 沖縄移民が乗船したチャイナ号 沖縄初のハワイ移民団が乗船した船。この船は「チャイナ号」(外国船籍)であった。1899年12月30日横浜港を出港し、ホノルル港には翌年の1900年1月8日に着いた。
Photo 拡大 沖縄戦災救済運動 ホノルル愁光園 (ハワイ) ハワイに同胞の多い金武村の復興はどの地域より早かった。
Photo 拡大 帰路に乗船したハワイ団員の見送り(那覇空港) 金武町はハワイ移民の足跡を中高生に体験する目的で移民航海体験事業を開催。金武中学校を中心に約500名の生徒が参加した。
Photo 拡大 銀製棹三線 ハワイの沖縄系2世が広島県呉の造船所で1ドル銀貨を鋳造し、ハワイにいる父親のために製作した三線。木製の棹より銀製の棹の方が価値があると思った2世に、沖縄の三線の棹材はリュウキュウコクタンが最高であるという父親の価値観は通じなかった。
Photo 拡大 三線健堅與那 1936年(昭和11)にハワイに渡り、その後米本国に渡る。伝承によると、県指定文化財の三線志多伯開鐘と対をなした三線といわれる。ロス在の沖縄3世屋宜盛次氏から1998年に寄贈された。
Photo 拡大 三線江戸與那 王府時代島津家に献上されたといういわれをもつ與那城型の三線。戦前東京の古書市で東恩納寛惇によって偶然に発見され、1939年(昭和14)の首里城南殿の同三線里帰り展で帰郷。北殿の沖縄郷土博物館に寄贈されたが、沖縄戦で行方不明になる。その後、沖縄系2世によってハワイに渡ったことが判明。昭和28年(1953年)首里博物館に寄贈される。沖縄県指定文化財(昭和31年12月14日指定)
Photo 拡大 獅子舞の獅子 首里王府から拝領された獅子舞が沖縄戦で消失したため、ハワイ在の南風原宮平出身者有志によりハワイで製作され、1950年に寄贈された。当時、外国から沖縄への輸入品については規制があったため、南風原小学校へ「学用品」として送られたものを宮平区民が引き取ったという。
1996年まで使用された後、寄贈された。
Photo 拡大 上布のワンピース (ハワイ) 紺地に緯絣のワンピース。ハワイ在の屋比久ウトさんが沖縄へ行く人に託したもので、着物をワンピースに仕立てたもの。もらった渡久地さんはこの衣服を大切にして、殆ど着用しなかったという。
Photo 拡大 船上で練習した獅子舞を披露するハワイ団員 金武町はハワイ移民の足跡を中高生に体験する目的で移民航海体験事業を開催。金武中学校を中心に約500名の生徒が参加した。
Photo 拡大 大工廻朝信氏資料 大工廻家は尚家にご奉仕していた家柄であった。1905年(明治38)にハワイに渡り、その後、米国本国(サンフランシスコ)に渡り、農園を経営した。
Photo 拡大 団員全員でホノルル市をパレード 金武町はハワイ移民の足跡を中高生に体験する目的で移民航海体験事業を開催。金武中学校を中心に約500名の生徒が参加した。
Photo 拡大 比嘉太郎 比嘉太郎ほど、愛郷心に燃えた不屈の開拓精神を貫き、移民の真実を伝えて止まない人はいないでしょう。ウチナーンチュ(沖縄人)の肝心チムグクル(暖かいハート)とハワイアンのホスピタリティー(歓待心かんたいしん)を兼ね備えたハワイ移民二世と言えます。
Photo 拡大 比嘉太郎氏着用軍服 比嘉太郎氏が終戦当時沖縄で着用していた軍服。
Photo 拡大 比嘉太郎著「移民に生きる」の草稿 比嘉太郎氏の『移民に生きる』の草稿。
Photo 拡大 布哇沖縄人連合会の生活改善趣意書 1960年3月13日発行の布哇沖縄人連合会による「生活改善趣意書」。贅沢が横行していることに警鐘をならし、交際上の改善点を冠婚葬祭、旅行など6項目を取り上げ、具体的に改善点を示している。例えば、旅行の際の餞別を廃止し、1ドル程度のレイを送ることや葬式の通夜の接待はコーヒーなどにし、酒類は全廃することなどハワイ文化を取り入れた改善点が興味深い。
Photo 拡大 木綿製封筒(オアフ島) 表に「オアフ嶋カハルウ日本語学校与那城清助様」と墨で記された封筒。裏には「金武村仲間ナベ」と記される。
Photo 拡大 琉歌大賞 恩納村商工会の主催で始まった琉歌の里・恩納村の村興し事業「琉歌大賞」は平成2年がら始まり、移民地からの応募も多い。毎年テーマを変えている。第8回大会は「母」というテーマで見事ハワイ在住の屋比久さんが大賞に輝いた。