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第二次世界大戦前の沖縄県の移民政策は、まさに貧困な経済を突破するためやむを得ずおこなわれました。1900年代の始めごろの過剰人口をどう抑えるか、また沖縄の疲弊(ひへい)した経済や県民生活をどう乗り越えていくかが、大きな県政の課題でした。これらの生活の困難や財政の窮状(きゅうじょう)のもとに移民は政策として進められたのです。
開拓期における渡航前の移民の職業はほとんどが農業であり、それもサトウキビ栽培が中心であることもあって、ハワイやぺルーなどへのプランテーション耕地への契約移民は政策としても進めやすい面もあったのです。 とりわけ、移民からの送金は驚くべき役割を果たしました。当時の送金の状態を統計記録からみてみましょう。たとえば、1912年(明治45)の送金額が83万3,000円ですが、この後1921年(大正10)まで、毎年ほぼ100万円が送金されつづけています。1929年(昭和4)の送金額をみてみますと、198万6,000円となっていますが、これを当時の県歳入総額の割合でいうと、なんと66.4%にも及んでいます。1933年(昭和8)には200万円を越え、移民の送金額が県経済にとってなくてはならない収入源になっていたのです。ちなみに、送金の最高額は、1937年(昭和12)の約356万7,000でした。 この間、沖縄県は第一次世界大戦後から1920年(大正9)の世界大恐慌期までの極度の悲惨な県民生活を強いられていた「ソテツ地獄」と呼ばれる時期を体験しているだけに、移民の送金は大きな支えとなりました。 これらの送金は、沖縄県にさまざまな形で救済の輪を広げました。たとえば、移民からの送金などをもとに金武尋常高等小学校の校舎が1925年(大正14)に建設されました。この校舎は県で初めての鉄筋コンクリートづくりとなり、沖縄社会に大きな反響を呼びました。
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