住まいの歴史
 

 先史時代の住居についてはほとんど不明であるが、沖縄の住まいは、仲泊遺跡(恩納村)に見られるように岩陰、または洞穴(どうけつ・ほらあな)などから発展したと考えられている。
 また、竪穴(たてあな)住居や小丸太(こまるた)で低く造った、草葺きの掘っ立て小屋(草屋)もあったと推察される。
 グスク時代(12世紀頃〜15世紀頃)になると、竪穴住居は姿を消し、穴屋(アナヤー)と呼ばれる掘っ立て小屋が盛んに造られた。
 穴屋は、家を建てる地盤に柱穴を掘り、外皮を荒落とししたシイ・マツ等の丸太を埋め込んだものである。壁は、竹を網代(あじろ)のように編んだ(チニブ)を二重にし、なかに藁(ワラ)または茅(カヤ)を詰めたもので、屋根は小丸太で小屋組みをし、茅あるいは竹茅葺きにした。床は土床藁敷きから竹床藁敷き、あるいはむしろ敷きになった。琉球王国時代(15世紀〜1879年)の敷地家屋の制限令(1737年)によって、田舎百姓の住まいはおもにこの様式に限定され、昭和初期まで続いた。
 グスク時代から琉球王国時代は、中国文化および日本文化の流入が盛んな時期であり、両文化は琉球建築に大きな影響をおよぼしている。礎石の上に直接柱を立てる本格的な木造建築が取り入れられ、浦添城や首里城などのほか、首里・那覇には多くの社寺仏閣が建てられた。首里・那覇では貴族を中心に、茅または瓦葺きの本格的な木造建築となる貫木屋(ヌチジャー)に変わっていった。
 廃藩置県(1879年・明治12年)後の1889年(明治22年)に、敷地家屋の制限令が廃止されると、建築は自由となるが、農家では穴屋の様式が戦前まで受け継がれ、首里・那覇の都会においては茅葺きから瓦葺きの貫木屋が主流となった。貫木屋は柱に貫穴(ぬきあな)をあけ、貫を通して楔(くさび)で締める構造で、柱は礎石の上に置き、高床形式である。
 いっぽう、琉球王国時代には、木造建築である宮殿や社寺仏閣が建立されるに伴って、それに付随した基壇(きだん)、勾欄(こうらん)などの石造建築が盛んとなった。豊富な琉球石灰岩を用い、城壁や橋、園比屋武御嶽(スヌヒヤンウタキ)や弁ケ岳、崇元寺などの拝所の石門、さらに浦添ようどれ、玉陵(タマウドゥン)などの墓陵が建立され、石造建築は木造建築と双璧をなすものになったいえる。
 ところが、それらの建造物は沖縄戦によってほとんど失われる。
 戦後の混乱期には、米統治下において住宅確保のための応急措置として規格住宅が建築された。
 規格住宅は、2間×3間の部屋に6尺×8尺の台所が付いた約6坪の平面をもち、2インチ×4インチの規格材を使用した米国輸入工法による住宅で、俗にツー・バイ・フォーと呼ばれた。
 その後、米軍基地の建設に伴ってセメント、ガラス、コンクリートブロックが急速に普及、台風災害の見地からも、それらを使った鉄筋コンクリート造りの建築物が一般化した。